ノーマライゼーションは障害者を不幸にしていないか

近年、ノーマライゼーションや権利擁護についてこれまでとは全く異なった角度から批判が強くなってきているように思います。

特にインターネットの世界では一般の人たちからのノーマライゼーション批判が強くなってきています。なかには目に余るような汚い言葉使いで知的障害者をののしったり、不当な恐怖を煽るような書き込みが増えています。

ノーマライゼーションの考え方は障害者団体の「錦の御旗」でした。もちろん名東福祉会もこの理念を掲げて30年が経過しています。

ここで確認しておかなければならないことは、ノーマライゼーションは福祉サービスを低下させたり縮小したりすることではないということです。入所施設を解体することがノーマライゼーションであるかのように喧伝する人がいますがこれは誤りです。

本来のノーマライゼーションは、障害がある人に必要なケアを提供し、必要なサービスを自由に選択することができるようにすることです。知的障害がある人の教育や支援は、幼児期や学齢期に最適な方法であたれば、その後の人生のすべての問題が解決するわけではありません。むしろ、適応行動はまわりの人たちの継続的な働きかけによって改善されますが、不適切なかかわりかたで不適応行動も増えていくのが行動の原則です。支援や教育をなくすことが自立支援ではなく、適切に継続していくことが自立支援であり、継続的自立支援の行き着く先がノーマライゼーションなのです。

最近、知的障害がある男の殺人事件が報道されました。関係した方々の失意を思うと胸が痛むばかりです。

こうした事件が起こるたびに、知的障害のある人たちにサービスを提供しているものとしては、地域ケアのしくみが圧倒的に不足していることを感じます。名東区生活支援センターのリポートにもあるように、知的障害者が主体的に地域で生活し、明るく健やかに人生を送るためには、選択できる福祉サービスが不足しているのです。

地域福祉時代といいながら、一対一の母子関係に強く依存した閉じた生活を強いられる状況に追い込まれている事例が多いのです。行政の担当者や専門家は、セルフアドボカシー(自己権利擁護)というような難解な言葉を導入して、何もしない、何もできない状況を是とすることはあってはならないことです。

一方、現在の法曹界に広がる権利擁護運動についても首を傾げたくなるような事例もないわけではありません。障害者だから責任がないということについてもそれが果たして権利擁護といえるのかについても考えていかなければならないと思います。たとえ知的障害があっても同じ人間として<罰を受ける義務や権利>もあるのではないか、それが本来のノーマライゼーションではないかと思う事犯も多くあります。

私たちのように障害者福祉を実践する団体も、そろそろノーマライゼーションという言葉について考えなければならない時期に来ているのではないでしょうか。

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