名東福祉会は家族参加型の社会福祉法人だ。名東福祉会の家族会の法人に対する協力は県下でも第一級であると自負している。

この協力があるのは家族会の要望に職員諸君が答えてきたことによる。要望になんとか答えようとする職員がいるからこそ、家族も要望を出し、家族会の協力も生まれる。

家族会と職員が連携して知恵を出し合い、協力しあいながら現場を良くしていくことは本来望ましいことだ。
これだけの法人ができ、県下でも評判が良いサービスを実現できているのもそうした循環があればこそだ。

ただ、だからこそ家族会のひとりひとりが要望を提出することには抑制的である必要がある。
要望を実現するにはどんな小さなことでもそれなりのコストの移転が発生する。
言い換えればどこかに資源を投入すればどこかが削られる。常に合理化ができ、無駄がなくなればよいがそうではないことが多くなっている。

人件費が70%を超えるような現場では、経営的に見てギリギリの状況である。
そうしたなかで、名東福祉会は正職員化を進める、給食の内容を改善するなどの努力を続け、ケアホームを建設するなどの計画も進めている。

障害者自立支援法が改善されて、直ちに倒産するというような危機はとりあえず去ったとはいえ、政策の中心は自己負担の軽減だった。法人の収入はそれほど伸びていない。
現在も経営的な危機は続いている。この危機を乗り切るためには家族会の良質な協力が必要なことは変わりない。

家族会はモラルを自ら高め、職員に協力すべきは協力して利用者の幸せの向上に常に努力すべきである。
そうした努力が職員の熱意を高める。

行き過ぎた権利意識

このところ様々なニュースで「障害」ということばが使われる。
行動障害、対人障害、人格障害、パニック障害、境界性人格障害、社会不安障害、適応障害・・・・・
症候群ということばもよくつかわれる。

まだその実態さえわからないにもかかわらず使用されている言葉も少なくない。国際的に定義された「知的障害」のようなことばや概念とは全く異なる。

問題はそうした言葉を発信している人と、受け取っている人が同一の定義に基づいて理解し合っている状況はほとんどないということだ。いったん「言葉」として流布してしまうと、安易に使われ、つぎつぎに別の意味が込められて広がってしまう。あわせて、「障害」という概念や連想もまたどこまでも広がっていく。

本来、「障害」というからには、健常者がサポートすべきであることを暗に示唆する。社会福祉法人が存在するのもそのためだ。しかし安易な「障害」の広がりは際限なく「健常者」の義務を広げることになり、ゆくゆくは「健常者」の障害に対する拒否や拒絶に結びつく。

昨今では道徳の破壊を生み出しているのは「行き過ぎた権利意識」だという指摘がされるようになってきた。これだけ「障害」や「権利」がやたらに使われれば当然の批判だ。

知的障害者や身体障害者の生活の質や社会参加を促進する上で、社会からの協力が不可欠だ。したがって、知的障害、身体障害のサポートを職業とする私たちは、安易に「障害」の概念を広げることを慎まなければならない。

障害者の権利を主張することについて、私たちはより注意深く、深慮して行動する必要があるのではないだろうか。

暫定税率を廃止して環境税

道路特定財源を廃止して一般財源化を進め、環境税とするという首相の提案は民主党も自民党も反対。福田内閣としては珍しく改革路線の政策だったが・・・。今後も混乱が続きそうだ。

道路特定財源の一般財源化は障害者福祉にとってはプラスなのではないか。この時点で環境税の中身がわからないが、「車に過度に依存しない生活と街づくり」はハンディをもった人たちの暮らしにはプラスになるように思える。

「環境税」の使途目的として高齢者、子ども、障害者にとって住みやすい町をつくることを目指す。歩いていけるところに生活に必要なすべてのものがそろう街をつくる。大きな矛盾はないはずだし、具体的に国民の理解を得られる使途を考えるならば、そうした方向性にならざるを得ない。

福祉サービスを提供する側からしてもそうした街づくりは費用対効果に優れている。

もっとも真に必要な政策を進めるために2大政党が存在しているわけではない。小沢民主党にも自民党にもそうした改革を進めていくという意識はなく、低空飛行を続けなければならない障害者福祉にとっては不幸な日々が続く。

不景気

日本の株はこれからどのくらい下がるだろうか。トレーダーをやっている知人に聞くと8000円までいくかもしれないとのこと。
まさかそこまで・・・とは思うが現在の日本国内の政治的な情勢を考えるとあながちあり得ない話ではない。

アメリカのサブプライムローンと同様の問題として、日本では改正貸金業法の問題がある。
武富士4821億、アコム4379億、アイフル4112億、プロミス3782億。それぞれ赤字を出している。

サラ金がいいとは思わない。行き過ぎたローンが消費者を苦しめていることは事実だ。
だが、これらの金融業者が消費者の旺盛な消費を支え、景気に貢献してきたことは間違いない。
一説では上限金利が23%、実際には20%となったために、今後、GDPで2兆1000億円の引き下げ効果があるとの試算がある。

問題は消費者ローンが証券化されて販売されていることだ。
消費者ローンでは違法も含め、無理に低所得者にお金が貸し込まれる。その後、価値の低い証券としてパッケージ化が行われ、それを投資家が購入していた。
サブプライム問題と本質的に変わらない。投資家は主に地銀、信金、信組で大きな損失が発生しているという。
これから金融機関の貸しはがしなどが再現されなければよいが・・・。

年金の財源をめぐる消費税の増税議論、道路特定財源の時間切れ問題、相変わらず繰り返される政争・・・
社会不安はばらまき行政で一見後退しているかのように見えるが、
名古屋の都市部の空き店舗の増加をみていると景気回復というよりは大幅に景気が後退しているという実感が強い。

その一方で投資先を失った資金が新しい顧客を探してさまよう。
このところ、証券会社等の社会福祉法人に対する営業が強まっている。他の事業所に聞いてみても同じような営業が増えているらしい。
投資家の減少等で顧客を開拓しにくくなってきていることが、新規の投資家を探す動きにつながっているのではないか。

そういえば新東京銀行も破たん寸前だとか。中小企業を救済するための融資という事業はなかなか難しいものだ。
中小企業が活性化されなければ授産施設の仕事は減少し、製品は売れず、障害者の生活や就労機会は確実に委縮する。

ほんとうに日本の政治はなんとかならないものかと思う。

高齢者と知的障害者の小規模複合施設「メイグリーン」

名東福祉会では2008年4月より
高齢者と障害者とボランティアが地域で支えあう場として「メイ・グリーン」をスタートさせます。
高齢者の人たちが人と出会いさまざまな刺激を受け、趣味を生かしたり深めたり。
あるときは人を支え、あるときは支えてもらう。

メイグリーンに行けばそこで偶然に出会った人どうしが、高齢者や障害者の地域支援について、自分でもできる楽しいことを見つけられる。
肩肘はらずにひとりひとりに合わせた形で、様式にこだわらない地域福祉ができたら・・・。
そんな発想でメイグリーンの地域福祉活動を行いたいと思います。

●前期高齢者の文化活動の場として

いったん寝たきりになると、機能を回復することは並大抵のことではできません。
介護に対する福祉予算も膨大になってしまいます。
高齢者の生活の質(クオリティオブライフ)を考えれば、健康で生きていける寿命を延ばすことが重要です。

「和の国日本」は昔から、人と和むこと、人と和することを大切にしてきました。
介護という狭いとらえかたではなく、人が人を支えあい、生き生きと暮らせる「なごみの場」を作ることが求められます。

活動の柱は
1 生涯学習活動
2 ひとりひとりに合わせた健康運動
3 健康な食の実践活動

生涯学習は コーラス、演劇、短歌、絵、歌、小唄などの文化活動。スポーツといっても足湯につかりながら湯ったり筋トレなど長く安全に楽しめるスポーツ活動を取り入れていきます。
講師は地域の生活者。高齢者の健康寿命を延ばし、人とふれあうことができる充実した人生を楽むことが目的です。

●知的障害者が人に貢献できる場として

メイグリーンでは障害がある人が、一流のパティシエの指導のもとに、少量ですがこころを込めた一品をお送りします。
知的障害者のクッキー作りの試みが開始されたのは2008年2月から。現在、12名の障害者がメイグリーンを利用しています。
ひとりひとりの障害にあわせ、じっくり取り組むのが基本方針。
そのため注文を50袋もらっても、できあがりまで一週間も要するような場合もあります。
ですが、せいいっぱい努力していいものをつくっていきたいと思っています。

知的障害者が地域で自立するためには人に喜ばれる役割があることが何よりも大切。たとえその金額は少なくても、感謝されて生きていけることは誇りです。

●障害児の親の学習の場として

障害があるこどもが成長するためにもっとも必要なのはしっかりと前をみすえて歩む親の存在。
親を支える活動は障害児福祉の基本中の基本。
メイグリーンでは日々の具体的な活動の中から、親どうしがさりげなく、明るく、きめ細かく、楽しく親どうしが支えあう場としていきたい。
そのために定期的に福祉や療育の専門家を招いたり、専門書を輪読したり、情報交換も行って行きたいと考えています。

●ボランティア活動の拠点として

無償で人々に貢献したり、自分で何かをつくって発表するような活動を求める人たちが増えています。
ボランティアというような献身的で犠牲的な立場ではなく、自分自身も学び、楽しみ、和みつつ、人の役に立つ。
コーラス、演劇、ピアノ・・・。
高齢者と知的障害者だけではなく、一般の人たちも学びあう。あるときは教師として、あるときは生徒として。
やりがいと生きがいのある充実した生活。そうした暮らしを求める人たちが増えています。

メイグリーンでは、新しいタイプのボランティアの活動の場を造っていきたいと考えています。
人と人が自然に支えあい、自然に学びあう。
そうした新しいタイプのボランティア活動の拠点として、メイグリーンは出発していきたいと考えています。

愛知県の福祉施設職員の上級研修

かって愛知県の福祉職員研修会ではインシデントプロセスという方法がよく使われた。
ただこの方法は特に医学や福祉独特の研修方法ではない。一般的なビジネスの問題解決にも利用されている研修方法だ。

構造的には
1 特定のインシデント(問題や事故)をレポーターが報告する
2 参加者はレポーターに追加的な質問を行って、情報収集を行う
3 一定の情報収集を行った後、独自の参加者が私ならこうするという方法を提案するもの。
他者が発表した解決方法を批判することは禁じられているので、自由に発表ができる。

ポイントはベストプラクティス(最も優れた実践)を選ぶことができる点だ。
NHKのテレビ番組「難問解決!ご近所の底力」も基本的にはこのパターンだ。
アメリカの医療分野の研修では、こうした研修方法を行うことが多い。
そうしたこともあって、愛知県ではかなり以前からこの形式の研修方法が根付いている。
そこのことはたいへん効果があったと思っている。

ただ問題もあった。
ベストプラクティス選考型の研修は、参加者の技能や知識に左右される。
問題解決方法を幅広く聞くという体験は、知識の幅を広げるが、もともとそうした知識は形式知(言葉にできるもの)だ。
ほんとうは暗黙知-言葉にできないような暗黙の知識が生活支援のクオリティを左右する。

「臨床は科学的データで裏づけされたものでなければならない」
とは行動療育センターの久野先生の口癖。
真にそのとおりで科学はそうした実証データで証明されたものでなければならない。
だが、久野先生の療育は「暗黙知」の固まりでもある。学会で報告されたデータは療育のほんの一部でしかない。

全国に広がる久野先生の弟子は一流の先生ばかりだが、久野先生の講義を受けたり本を読んだから一流になったのではない。(失礼)
むしろ久野先生の臨床に実際に触れて、臨床のすばらしさや奥深さに魅了された人たちだ。名著「医行動学講義ノート」も師匠と弟子の間の問答形式で話が進む。臨床場面を持っていないと話にならない。

久野先生が持つ暗黙知は弟子にならなければ伝わるものではない。

ベストプラクティス選考型の研修は技術の進歩にとってプラスにはなるけれども「決定打」にはならない。
やはり、徹底した療育技術の向上を求めるならば名伯楽から教えをこうことが唯一の道だ。

行動療育センターができたのは奇跡ともいえる。
愛知県の福祉施設の専門家の人たちに、上級研修の場として「たけのこの家」を活用していただければと思う。

福嶋先生、これからもよろしくお願いします

知的障害者福祉施設は「精神科医」を嘱託医をおかなければならないとある。

しかし、よく考えてみればこれはおかしい。もともと医師免許なるものは特に診療科ごとに免許が下っているのではない。医師は国家資格だが、診療科は何を標榜してもよいことになっている。例えば内科医が精神科とか神経科の看板を掲げてもとくに問題があるわけではない。

そこで、嘱託医の要件について県に確認したところ、
「知的障害者の診療に相当の経験を有する医師であれば精神科の医師でなくてもよい」
との回答を得た。規制緩和というか、実態に合わせての改革というか、ともかく大いなる前進といえる。

レジデンス日進の利用者は地域の名医として名高い、福嶋ファミリー内科に行って診てもらうことが多い。そうしたところから、福嶋先生はレジデンス日進に「ボランティア」で無料診療していただくようになった。

この先生はすごい先生だ。
無料診療だけではなく、休日にはドクターズバンドと称して、ドクターだけのバンドを引き連れて施設に乗り込んでくる。

レジデンス日進の看護師も福嶋先生が來所されると、誠にいきがぴったりあった看護報告を行っている。もちろん利用者は大喜びだ。

大喜びなのは「バンドの先生」が来たからではない。ひとりひとりの生活の悩みを含め、利用者の健康をよくよくご存知であるからだ。これ以上、知的障害の本質をご存知の医師はこの地域に福嶋先生をおいて他にあるまい。

私たちは地域のお医者様でもあるし、この先生に心底惚れ込み、嘱託医になっていただきたいと思っていた。いや、実態は私たちが頼りとする医師であった。しかしこれまで精神科医でなければならないとされていたので愛知県に嘱託医として登録することはできなかった。

でも、どうしても福嶋先生になっていただきたいと愛知県に問い合わせたところ、そうした回答を得ることができた。
ありがたいことだ。ほんとうに正しい願いは通じるものだと思う。

生活の質を高めることが肝要

名東福祉会が最初に設立した施設は1981年に開所
2008年だから今年で27年になる。
50代の利用者も増えてきた。

その一方でたけのこの家のように学齢に達していないこどもたちもいる
親の年齢は、それだけ広がった。

高齢者の施設を経営してほしいという人が多くなった。
現在の医療・高齢者福祉の分野の状況を考えれば、名東福祉会が直接経営を行うことは
非現実的だが、利用者とその家族の生活を支援して行くという視点は捨ててはいけない。

親にとっては自分の生活のありようを考えることは、同時に障害があるこどもの将来を考えることでもある。

高齢になった家族をどのような形で支えるべきなのか、その手立ては考えておく必要がある。
ありきたりの高齢者施設を企画するのではない。
気軽な勉強会から始めていただきたい。

現在の地域にある高齢者福祉サービスを徹底的に調べる。
その配置、アメニティ、利用料金、利用サービス、利用システム、職員配置、収益、設備投資などなど。
また福祉制度についても。

そうした勉強をしていくと、新しい名東福祉会のあるべき姿が浮かび上がってくるかもしれない。

親子で入れる福祉ホーム

会員の方々が最近「親子で入れる福祉ホーム」というコンセプトで高齢者福祉を望む声がでてきている。高齢期に入った親がそうした要望を持つようになることは極めて自然な発想だともいえる。名東福祉会への期待の大きさを表しているのかもしれない。

過去30年間の間に、名東福祉会には高齢者福祉事業に乗り出さないかという話が何度も来た。
経営が立ち行かなかった高齢者施設を委託したいとの話やある中堅商社が福祉事業に乗り出すので高齢者福祉をやらないかという話、土地を寄贈したいので高齢者福祉をやってほしいという話などいろいろだ。

なかには本気でやってみるべきかも知れないという案件もあった。だがその度に結局、高齢者福祉事業は行わないという結論に達している。
理由はそれぞれあり、それぞれ異なる。
でも本当の理由は、当時から現場職員のリーダーとして勤務してきた自分にとって高齢者福祉をやる使命感が持てなかったからだと思う。
福祉事業を引き継ぐ人間に使命感が育たなければ福祉事業はできない。

高齢者福祉の世界には自分にとってはどうしてもやらなければならないという純粋な使命感はもてない。
もしやるとすればどうしてもビジネスとしての収益性を判断して乗り出すことになる。
だが、福祉である以上、収益性は高齢者福祉といえども低い。近年の医療・高齢者福祉改革はかってのような高収益率を許すほど甘くはない。

知的障害者福祉も高齢者福祉も、福祉の理念において本質が変わるものではない。
具体的な介護技術に差異はあるけれども、基礎的な支援・介護技術においてさほど差があるわけではない。
しかし、単に技術論の類似性や収益性で高齢者福祉を行うための使命感を持つのはやはり無理だ。

理事長としてなんとか青息吐息でこの業務を続けられるのは、我が子が救われたり成長することに無償の喜びを感じる親がそこにいるからだ。
無償の福祉をやるには他者のために無償とはいわないまでも、意気に感じて行動をともにする同士も必要だ。

親子で入れる福祉ホームのコンセプトはほのぼのとした幸せを感じるかもしれないが、ほんとうにほのぼのとした生活がそこに待っているのかをよく考えなければならない。
コストやケアの難しさを考慮せずに事業化すれば、実際に入居したら<現実は甘くなかった>となりやすい。またそうした不満が出やすいのもほのぼの福祉の世界ではないか。

やはり社会の成員が共同負担して成り立っている福祉事業は、まっさきに救済すべき人を救済することを優先するべきだ。
名東福祉会が高齢者福祉に乗り出すとしたら、もう少し経営者の世代が代わらなければならないのではないかと思う。

選択肢の多さと消費者の満足

普通は選択肢が多いと満足すると考える。実際にはそうはならない。
実際には選択肢が増えれば増えるほど、消費者の満足度は減って行く傾向がある。

行動経済学という分野の学問がある。
経済を動かしているのは理論的に欠陥がない人間ではなく、感情をもった不合理な判断をする人間だという前提のもとに
これまでの経済学を行動に視点をあてて組みなおした経済学だ。

選択肢が多いほうを選ぶのが合理的な判断だが、人は選択肢が少ないほうを選んでしまう。そのような「選択のパラドックス」が存在することを行動経済学は教えている。

知的障害者の地域福祉においても同じようなことがいえるのではないか。食事の選択メニューにはじまり、作業の選択、余暇の洗濯、住む場所の選択・・・といろいろと選択肢が拡大していく。

選択肢がないことは大いに問題であり、「措置」はまったく自由が阻害されているため問題があった。
だが私たちが常識としている施設生活の選択性に価値があるという考え方にも問題はないか。

両親とともに家庭で生活する、グループホームで生活する、新しくできるケアホームで生活する、レジデンス日進で生活するという4つの選択肢でも精一杯だ。それ以上の選択ができる状況になると、ひとつひとつの場所の満足度が逆に低下しそうな気もする。

「毎日働く場所を変更することができます。」
消費者としての権利が護られているかに見える支援費の日払い制度。実際には日替わりで利用する施設を変更できることを喜ぶ知的障害者は少数派だろう。
ひとつの施設を選択できる日数は1ヶ月で23日を限度とすることも理解できない。(というか予算の都合以外のなにものでもないが)
選択という美名のもとに実際の利用者満足が阻害されていくとしたら、私たちは大いに反省しなければならない。

まだまだ障害者福祉は足りない

平成19年12月7日に障害者自立支援法の抜本的見直しに関する与党プロジェクトチームの報告書が出た。
3年後の見直し時期を迎えたとしても、とりあえず急速に名東福祉会の経営状態が悪化することだけはなくなった。

ただ安心しきるのは早い。報酬単価の見直しが盛り込まれたものの、ケアホームや通所サービスの報酬単価がいくらになるのかについて、はっきりと示されたわけではない。
むしろ怖いのは、私たちがこの状況に安住してしまうことではないだろうか。

過去8年の間、スウェーデン、デンマーク、イギリス、ドイツ、カナダ、アメリカ合衆国東海岸の施設、オーストラリアの福祉施設を見てきた。
同じ先進国でありながら、知的障害者福祉の海外との差異に愕然とする。

カナダのグループホームは定員6名。閑静な住宅街にあって、職員は3名づつ3交代制だった。
その法人は24箇所のグループホームを運営しており、利用者の相性が悪いと利用ホームをいろいろと変えることができた。

デンマークのファーラム市では老人と障害者が同じケアホームに住んでいた。
完全にユニット化された8名のユニットが4つ集まって「集合住宅」を形成し、その集合住宅が4棟集まってひとつの施設になっている。
全体で105床。そこに地域デイセンターが併設され、地域生活の訓練施設も設置され、相談事業も行っている。
給食施設はこの施設群全体に食事を提供するとともに、ファーラム市に住む独居老人にクックチルの弁当を宅配するサービスも行っている。
北欧では効率とQOLを両立させている。日本では地域福祉というと規模の小型化・分散化のように考える人がいる。間違っていると思う。

アメリカのワシントン郊外の施設。
作業棟ではパテントを取得したノンスリップ松葉杖の組立作業を行っている。
ここの法人の中には就労前教育を行うアカデミーがあって知的障害がある人たちが真剣に講習に参加しノートをとっていた。
現在ワシントン市内に2000人が就労していて常にアフターケアサービスを受けている。
法人の財政をまかなうため、中古車の寄付を呼びかけている。業者と提携し、車を修繕・再販して収益を稼いでいる。
これはワシントンの有線テレビネットワークにテレビコマーシャルを流すまでになっている。
アメリカは競争社会であり受益者負担の考え方が徹底している国。だから支援費報酬は低くて自己負担でまかなわれていると思ったらそうではない。
低所得者向けのメディケイドとメディケアという制度があり、実際には日本の支援費単価よりも高い報酬が提供されている。

ドイツの障害者施設は規模が大きかった。キリスト教会が財政をバックアップする。圧倒的な設備、圧倒的なボランティア層によって支えられている。
宗教をベースとして、ハンディをもった人たちを支えあうという連帯感に圧倒される。コストを下げるために入所施設を解体して地域福祉に移行するという発想はない。

オーストラリアのメルボルンでは義肢や補助具のフィッティングをしている施設を見学した。
何かとローテクではあるが義肢や補助具を用い、工夫をこらして生活の質を高めている。なにごとものん気に生活を楽しもうという国。
オーストラリアなまりの英語で利用者も見学者に「ナイスダイ(nice day)」といってくれる。明るい。
工夫できるところはどんどん工夫して自分でできる生活を作り上げていくガッツがいい。
世界トップクラスのロボット技術をもつ日本としては、障害者分野にこれを適応するといいが、その前にローテクでやれることもたくさんある。

イギリスではケアの質を保つために現場に入って監査が行われる。定型的な提出書類中心の監査だけで「指導」が終わる日本とまったく違う。
日本の監査は補助金や支援日報酬の申請内容の検査、利用者との契約内容、施設の設備、職員の配置状況、職員の資格、職員の福利厚生、役員の報酬が監査の中心。要するに申請に不正はないかということと、経営者が不当に儲けていないかをチェックする。職員は不正がないことを証明するために膨大な書類を作成することに日々追われる。

日本の障害者福祉制度は硬直的だ。障害者自立支援法が廃案になることは望ましいが、過去の硬直した運営を強いられる福祉に戻るのは困る。
利用者にとって望ましいサービスが創意工夫によって生み出されるしくみがないことは、結局、利用者のQOLを低下させる。

消費税増税論議が出てきました。つい最近まで封印されていたのに、大連立構想が納まったとたん再び論議され始めました。

財政立て直しのために消費税を上げることはよくありません。高齢者医療費負担増の凍結など、もっと議論すべきであるのにあっさりと通過しそうな気配です。
尊厳をもって迎えるべき死。それに対して終末医療を食い物にするかのような医療現場。まだまだメスを入れるべき分野が残されています。

障害者福祉に掛ける予算はもともと多くありません。介護保険との統合が難しくなった今、財源は消費税しかないことはわかっています。でも、安易な増税と支援費財源の確保はかえって障害者福祉をだめにします。

日本が高福祉・高負担の福祉国家となることは無理だと思います。日本は1億3千万人のアジア的家族主義国家。大半の資産を高齢者が保有しています。スウェーデン(900万人)やフィンランド(500万人)は国全体で愛知県(700万人)と同じぐらいの人口しかいません。根本的に日本の経済とは状況が異なります。日本が北欧の国と同じように高福祉・高負担の国家に変わることは難しいと思われます。

やはり成長力を底上げしていく施策が必要でしょう。中途半端な増税によって経済が停滞し、税源が不足するという悪循環が続くことがいけません。成長力が落ち込んだままだと、障害者雇用は夢のまた夢。障害者自立支援法によって施設で生活することもだめ、企業に就職することももだめでは障害がある人はどこで生活すればよいのかということになります。障害者福祉の質は成長力が確保されてこそ安定します。あいまいな増税論は障害者福祉にとって毒針ではないかと思います。

生活介護施設として利用者から最も期待されるニーズはセルフケアスキルの向上ではないでしょうか。
障害が重い人にとって身辺処理技能(セルフケアスキル)を学習することは重要です。理由は明白。セルフケアスキルを獲得することは
1 本人の健康の維持のために必須
2 スキルを獲得すれば親・支援者の全体的なケアを軽減することにつながる
3 社会の他者からの受入が改善し、社会的への参加機会が増加する
スキルを獲得するのは支援員のためとか、親のためで、本人のためにやっているわけではないというような不毛な議論はするつもりはありません。

もっとも、障害が重い人にとってはセルフケアを獲得することは難しさを伴います。
1 手先などをうまく動かすことができない
2 社会やまわりへの関心が低いこと
3 訓練機会が少ないこと
4 本人の認知能力の低さ
5 上記の要因の組み合わせ
などなど。「言うは易し、行うは難し」が重度の知的障害者のセルフケアスキルです。

口をすっぱくして教えても、罰をあたて教えてもセルフケア技能は獲得できません。やはり緻密なABA技術を用いて訓練していくしかありません。

1960年代。日本の施設の草分けの時代。そのころの施設は親は面会謝絶。こっそりと施設の中を覗いた名東福祉会の会長は豚小屋と同じように利用者の糞尿が居室に垂れ流されていたのを発見し、長男(筆者の兄)が利用している施設から引き取ったとのこと。当時の施設ではトイレットトレーニングはまったくされていませんでした。

アメリカではそのころからようやくトイレットトレーニングが始まったとのこと。1970年代ではめざましい技術的な進展を見ています。現在では発達障害児のトイレットトレーニングはかなり幼少のころから行われるようになりました。その成果により、排泄が自立していない知的障害者は少なくなったものの、依然として訓練を行わなかったり、訓練機会が提供されていない知的障害者も多数いるのが現状です。

今後、障害者自立支援法によって日中活動と夜間ケアを分離が進んでくるため、入所施設の主な機能はパーソナルケアスキルの獲得が課題になるでしょう。ところが、入所施設の夜間ケアは単価が極端に低く設定されているため、これらの学習を進めることが事実上不可能というシビアな問題があります。これについては他の場面で論じましょう。

パーソナルケアといってもいろいろ。食べること、料理すること、排泄すること、風呂に入ること、着替えること、歯を磨くこと、衣服の着脱、ベッドメイキング・・・
女性の場合には生理の手当、男性の場合には性欲の処理など公表することを躊躇する技術も多々あります。それらの生活時間帯すべてにわたって、適切な行動の学習とともに、不適切な行動の軽減が課題となります。

重度の知的障害者のパーソナルケアのスキルの獲得は応用行動分析以外の方法では成果が上がっていません。入所施設はこうした技術を導入することが今後必須となると思われます。愛知県の場合、この技術の普及がたいへん遅れており、改善することが必要ということを愛知県知的障害者福祉協会長の安形さんともよく議論しています。名東福祉会にはこの分野で日本の第一人者の久野能弘先生が「たけのこのいえ」で実践活動をされています。愛知県の福祉施設に行動療法技術が普及していくことを期待します。

パーソナルケアスキルの汎化(訓練場面だけではなく、日常生活場面で使えるようになること)は難しいが重要な課題です。重度の障害者の場合、家庭や施設でできても、他の場所でできないという場合が多い。専門家と連携し、その人が生活する場所ごとにそれなりの支援が必要となります。

この問題に対してはTEACCHが地域全体を巻き込んで「構造化」していく戦略を定着させています。障害者に環境側があわせていくという考え方も定着してきました。一般にどんどん消えてしまう音声言語情報の処理よりも視覚情報の処理の方が容易なために、視覚的な手がかりを普及させていくことも環境側の努力で獲得したセルフケアスキルを発揮できる場面も増えることにつながります。そうした環境側の努力と合わせて、やはり一般の生活場面で使いこなすことができるようにパーソナルケアスキルが獲得できるように施設で訓練することが重要です。

生活介護は古くて新しいテーマ。このテーマに真剣に取り組み、成果を上げていくことが今日的な課題です。

今後、有料老人ホームは多様化に向かいます。シニアリビング・マーケットは各方面から熱い視線を浴びている将来有望なビジネスです。今の高齢者福祉ビジネスはまさに不動産業の様相を呈しています。
スウェーデンの身体障害者施設に見学に行ったとき、ほとんどの人が高齢者で拍子抜けした覚えがあります。身体的なハンディは高齢になればほとんどの人が負います。だから身体障害者施設なのです。
プールあり、リラクゼーションルームあり、食堂あり。日本のスパのようなものです。日本の多くのシニアリビングマーケットも快適な個室とリハビリ施設を併設するような方向に進んでいくでしょう。

一方、社会福祉法人立の老人ホームは重度の認知症や介護度が高い人たちを受け入れることにならざるを得ないでしょう。そういう方向に介護報酬体系も設計されることと思います。
社会福祉法人の存続意義も問い直され、介護度の高い利用者の受入が進んでいくということです。

知的障害がある人のアシステッド・リビング(介護付き生活)はまったく取り残されたままです。
ただ、その気があれば高齢者施設を利用できるようになるし、高齢者施設側からしてもよいお客様になる可能性があります。利用者によっては高齢者施設の方があっている人もでてくるかもしれません。
夜間は高齢者施設を利用し、日中は障害者施設を利用するなどのパターンもあり得ます。ですが、複数の法人間を行き来する利用方法はコストがかかり、自己負担も増えるため、夜間ケアを利用する法人に
すべてをゆだねることになると思われます。

しかし、他害や自傷行動がある知的障害者を受け入れ、そうした行動が出ないような質の高いケアが行える高齢者施設がここ10年の間に多数育つことは難しいでしょう。
逆に言えば、現在の知的障害者施設は重篤な問題行動に取り組むことができる技術と、低ランニングコストで質の高いケア環境を整備することが生き残りのカギとなります。
緩和措置と混迷した政治状況に安心している施設は、早晩、倒産の危機と隣り合わせになると思います。

最近の介護ロボットの進展はすごい。ロボット技術は日本は先進国。これからこの分野のロボットはどんどん開発が進んでくるに違いない。

クオリティの高い介護を行うためにはホームの空間の設計やロボット技術が重要だ。そうした技術を利用すると、介護の負担は減り、結局介護コストが減ることになる。利用者も生活空間が広がり生活の質も上がる。

到着型のロボットの進化は目を見張るものがある。
人間が発する微弱な電流を感知して、適切に筋肉運動を補佐することができる。
47年間歩いた経験がなかった人が装着型ロボットによって自然に歩けた。
女性がモビルスーツを装着して楽々と高齢者を持ち上げることができるようになる。
介護方法を根本から変えるようなロボットが開発されている。身体障害の克服や訓練のためにロボット技術が貢献できる分野は計り知れない。

すでにこれらの介護ロボットを導入している病院もある。
ホームセキュリティ関連のロボットも介護現場で応用が可能になるだろう。
夜間にグループホームを巡回するロボットがホーム内の異変を知らせる。
写真を撮り、警察にも自動送信するから巡回ロボットがいればどろぼうは退散する。
火災が起こっても初期消火に役立つ。
ロボットの体内には消化器が組み込まれたロボットは火災をみつけると自ら火に飛び込んで消火する。

こうしたホームロボットが障害者福祉分野に導入される日は近い。

それにしても国や地方行政のやっていることには無駄が多く、最近の政治情勢はただでさえ悪化している財政をさらに悪化させています。無駄ならまだしも社会保障に絡む不正や防衛に絡む巨悪も次々に明るみに出てきます。
今政治はこれまでの歳出削減の無駄をなくす努力は不要であったかのような「小春日和」を迎えていますが果たしてそれでよいのでしょうか。
例えば消費税のアップ論議。必要な財政支出をまかなうためには増税が必要という論議であり、このままではほとんど障害者福祉にまわることはありません。

消費税増税になればじわじわと上がる食料品等の物価上昇と消費税の上昇のダブルパンチで障害基礎年金は消失します。もう消費税をあてにした障害者福祉はこの国では期待できないのではないでしょうか。

むしろ消費税増税と金融の緊縮でこのまま経済が縮小することは怖いことです。失われた10年で私たちは不景気の怖さを体験してきています。
1 障害者が働く場所場所がなくなる(まっさきに解雇)
2 下請けの作業がなくなる
3 授産製品が売れなくなり工賃が減少する
やはり健全な経済成長があってはじめて障害者福祉も安定します。

では消費税を上げずにどこに支援費の財源を求めるのでしょうか。
徹底的に行政の無駄をなくすことが第一。
次に介護保険と同様の障害者保険の導入です。具体的には20才からの介護保険者の加入です。

ですが介護保険の障害者への拡大は経団連、医師会、高齢者福祉団体の反対でなかなか切り込めません。
経団連は消費が減速する恐れがあるから反対(消費税は商品に転化できるので賛成)。
医師会は医療保険が見直されることにつながるから反対。
高齢者団体は障害者への介護保険の分配で割り当てが減るのがいや。
そうした中で肝心の障害者団体は支援費が義務的経費になったことと激変緩和措置が出ただけで安心しきってしまいました。

高齢者福祉が厳しくなったとはいえ、介護保険と支援費の単価差を見る限り、障害者福祉の不公平さは解消されているとは言えません。
医療保険の世界は国の予算とは切り離されているため、無駄が見えないのです。でもそこには障害者福祉の世界とはケタ違いの無駄が存在しています。

こうした不公平がそのまま放置されるのはやはり障害者福祉に国民が無関心であることが原因でしょう。

これを解消するためには政治を変えるために親の会と民間福祉施設やNPOが連携することです。全国知的障害者福祉協会には育成会とは別に全国の施設利用者の親の会を組織化する動きがあります。ただでさえ小さな集団が団体のいがみ合いでさらに細分化されていけば、国民の関心はさらに遠ざかってしまいます。

●小島一郎(名東区障害者地域生活支援センター所長)

「国民の関心が障害者福祉に向かない」のは、やはり、「誰もが年をとる」という高齢者福祉の分かりやすさに比べ、障害というものの身近さを国民が感じにくいからでしょうか。同じような意味で、それでは児童福祉はどうかとも考えてみたりするのですが、やはり今ひとつの感がある。

結局のところ、誰もが「自分の問題」に一番の関心があるのであって、年老いた先の不安というのは避けられないし、そのための福祉の負担は何とか受容できるが、障害者が家族や親戚にいる訳でもない、結婚するかどうかも分からないし、自分に子どもができるかなんて、もっと分からないとなると、なかなかこれらの問題に主体的に向き合おうとは思っていただけないのでしょうね。

ただ、私自身、支援Cでの相談業務や認定調査を通じて、いかに大勢の方々が生活習慣病から身体障害者となっているか、いかに精神疾患を抱えた方々が普通に地域で暮らしているかを知ってしまい、一個人として、素直に自分の問題として捉えられるようになったという経験をしております。誰もが年をとるように、誰もが障害者になり得るといった実感です。ですから、アナウンス次第で、広く国民が障害者福祉に目を向ける可能性は、充分にあると思っていまあす。

ひとつ難しいのは、知的障害者の問題。一応、正常域内にIQがある人間としては、自分が知的障害を負うかもしれないとは思えません。また、自分の子どもが負うかもしれないという論理も、やはり「誰もが・・・」というシンプルさにはとても敵いません。つまり、知的障害へ国民の関心を向けることが最も困難で、せいぜいTVドラマなどで、「無垢な天使」のようなレベルの扱われ方をするのに留まってしまいます。

私のように、15年も知的障害者施設にいた人間は、「自分がなるはずのない」知的障害をもった利用者を相手にし続けた結果、「自分もなるかもしれない」身体障害や精神障害にインパクトを受けている訳です。ある意味、象徴的な話です。

実際には、「誰もがなるかもしれない」脳血管障害やうつ病の話は医療の話となり、予防の話、健康の話として政策反映されているので、ダイレクトに障害者福祉を動かすことはないのですが、教育や福祉、医療といった分野を体系的に大人が理解するよう、構想していかないといけないと強く思うこの頃です。それが、社会の成熟ってものではないですか。政治や行政のプロは、それを形にしてこそのプロですよね。

10/2付ブログ、拝見しました。

生産消費活動によって形成される富というのは、何も貨幣的なものばかりではなく、「生活を潤すものの総体」
とでも言うべきものでしょうか。いわゆる’priceless’なものも含まれる訳ですよね。

結局、生産消費活動の動向は就労支援事業のみならず、社会福祉法人のあり方に一石投ずることにもなります。
例示されていた事柄は、ややもすると自己完結的であるような批判を受ける可能性もありそうですが、地域へ拡大
していくようなベクトルを(潜在的にでも)有しているかどうかですよね。

このように考えていくと、デイケアからナイトケアまで、生活介護から就労支援まで、幅広い事業展開をしている方が
生産消費活動も展開しやすく、有利であると言えます。「縮小均衡ではなくて、サービス拡大による選択肢提示」
という名東福祉会の理念は、一方でマンパワーの拡散も伴い、この時代において厳しい側面もありますが、長い
スパンで将来を考えたり、社会福祉法人の役割の本質のようなものに迫っていくと、やはりこれしかないというところでしょうか。

狭い範囲(事業所単位)では「拡散」に見えることも、広い範囲(法人単位)で見れば「充満」なのかもしれません。

from kojima

(コメント)
施設が自己完結的であろうとしても、生産消費者は施設というコミュニティーの枠を超えて広がっていくでしょう。
Pricelessな活動に案外人々の幸せがあるかもしれない。
農業社会→工業社会の次にくる脱工業化社会は生産消費がキーとなる。
そうなれば、知的障害者が普通に行っている生産消費者としての生き方が社会を変え、リードするかもしれない。
これはまさに糸賀一雄先生が「この子らを世の光に」と述べたことがいよいよ実現されるまえぶれなの?とも思います。

20年ほど前に、板山賢治氏が「授産施設は社会からお金をもらっているだけではなく、授産活動によって
価値を産み出しているから福祉の中で価値がある」と講演したのを私はSELPの職員研修会の最後列で聞いていました。
その際、「工賃10000円の価値ではそんなに価値がないなあ」と思ったのでした。
でも、現在貨幣経済で産み出されている価値は50兆ドル。それと同等以上の価値を生産消費者は産み出しているそうです。
国が進めている「工賃倍増計画」で利用者が受け取る工賃5000円が10000円になってもむなしさが残りますが、
50兆ドルの価値と聞くと、ばかな私は張り切ってしまうのです。

生産消費者

未来学者のアルビン・トフラーは生産消費者という概念を提示しました。生産消費者とは「自ら生産し、自ら消費する消費者」のことです。
・自分で家を直したり造ったりする日曜大工
・自分で支払うセルフレジ
・デジカメ
・自宅でできる健康検査器具
・利用者が自ら編集し加筆するインターネットのWikipedia
・読者が書き込みができるブログ
などなど。いたるところで、「生産消費者」は増え、自ら富を形成しているとトフラーは説きます。

障害者施設の利用者やその家族、職員は以前から「生産消費者」であったという面があります。施設では「自分たちの生活の質を上げるために自分たちが手づくりで生活を作り上げる」という側面があります。貧乏だからそうせざるを得なかったという側面もありますが。
障害者施設の場合、生産消費活動の多くの部分を職員や家族会やボランティアが行うことになりますが、利用者自身もそうした活動に参加することができます。

例えば、施設のバザーにおいてはバザーで販売する用品をつくる人も、それを購入して消費する人も施設関係者であったりします。
バザーの目的としては施設運営費を獲得するためという大義名分はあるのですが、生産者と消費者が同じであり、金銭的な尺度から見ると目的とは裏腹に、たいへん小さい金額しか動きません。でも、バザーに生産性がないかというとそうではありません。むしろ、地域の人々や家族同士の絆を深め、施設の生活を豊かにするという付加価値があります。生産消費活動という側面からバザーを見れば、実際の金銭活動の数十倍の経済活動が行われているといえます。

トフラーは今後、世界の生産消費活動が拡大し、通常の貨幣経済を押し上げていくと見ています。障害者福祉に関する財源が厳しいといわれていますが、施設における生産消費活動は知的障害者福祉がおかれている状況の突破口になると思います。これまでに蓄積されたノウハウにより、授産施設や福祉施設には豊富に生産消費活動を行うツールが存在しているからです。陶芸、木工、農作業、園芸、日曜大工、製パン、製菓、縫製、給食作りI、T技術・・・
名東福祉会では今後、お米すら自分たちでこしひかりやはつしもなどのブランド米を農家から直接手に入れ、精米してつきたてを食べることができます。ありとあらゆる楽しい生産消費の機会が施設には存在しています。生産消費活動を続けた白鳩会では自前の農園から年間2億円を超える収益を上げていますが、実際にはそれを遙かに上回る生産消費活動を鹿児島全体で展開されています。

今後団塊の世代の労働力がボランティアとして大量に施設に流入し、いっしょに生産消費活動が展開されれば、施設利用者の生活は金銭によらなくても飛躍的に豊かになるはずです。施設が閉じた消費活動を行うだけでは、今の財源ではたいへん貧しい生活しか手に入れることができません。でも生産消費活動があれば別です。授産施設に対して貨幣経済的の側面からのみの評価で施設を断罪し、施設不要論を展開する知識人を私は信じません。

私たちは生産消費活動を展開できる就労支援活動や日常生活を求めていきたいと考えています。

愛知県知的障害者福祉協会主催の東海地区知的障害関係施設長研究協議会を傍聴させていただきました。
講師は日本知的障害者福祉協会政策委員長の柴田洋弥氏です。

テーマは「障害者自立支援法の抜本見直し」。ポイントは
1 障害の程度区分を三区分に戻す
2 障害程度区分によるサービスの利用制限を見直すこと
3 介護保険との統合には反対
4 応能負担にする
など。要するに小泉構造改革が求めたアメリカ型の低福祉・低負担はだめで障害者自立支援法以前の障害者福祉ににもどせという主張です。

知的障害者福祉施設の政策委員長の立場からすれば「障害者自立支援法」の改正を求めるのは当然です。障害者施設の既得権が脅かされたからです。

ですがこうした主張が国民に受け入れられるでしょうか。そもそもわが国では中福祉・中負担路線が財政破綻を招いたのではないでしょうか。こうした主張により、ますます知的障害者が社会から阻害されてしまわないか心配です。

現在、新しい内閣によってこれまでの「構造改革路線」が否定され揺れ戻しが起こっています。所得格差、地域格差の問題です。

これらの揺れ戻しが続けばいずれ所得再配分とそれを支えるための巨大な行政システムを維持することは困難になるでしょう。
(1)大借金(2)超高齢化(3)競争力低下(4)小資源
というわが国がおかれている状況は変わらないからです。

このままでは財政再建のために大規模な増税か借金が必要となり、
1 借金に頼れば金利上昇
2 増税に頼れば景気減速
を招くでしょう。いずれにしても知的障害者の生活を支える財源がなくなります。措置の時代の福祉にもどしたところで、将来にわたって安心できるシステムが手に入るとは思えません。

アメリカ型の福祉-つまり新自由主義は厳しい競争社会であることは間違いありません。グローバリズムの欠点です。
しかし柴田氏も指摘していたように、アメリカの福祉は日本よりもはるかに知的障害者にハンディをつけて競争を行っています。
ほんとうの弱者として知的障害者が社会に認知されておらず、関心が持たれていないことによって正当なハンディがつけられていないことが最大の問題です。

障害者にとってQOLを高めるための構造改革は
1 行政システムの真の構造改革をさらに推し進める
2 知的障害者が真の弱者であることを社会が認知する
3 医療分野、高齢者福祉分野に流れ込む超過利潤を知的障害者福祉分野に開放する
4 知的障害者雇用を徹底的に進める
5 知的障害者福祉分野への寄付や投資に関する制度を改める
など正当なハンディを知的障害者につけて公正な競争を行うことです。
協会の構成員たる施設長は知的障害者がおかれている状況を社会に知らしめる行動をとるべきであり、そうした運動が起こるよう協会のトップには運動方針を見直すことを期待します。

実現が難しい介護保険への統合

介護保険への統合が凍結されて久しくなっています。
経団連は若年層からの介護保険負担を理由に反対しています。
高齢者福祉団体は障害者支援費が介護保険統合に統合されるとパイが少なくなるために反対しています。
肝心の障害者施設経営者も多様な福祉サービスの提供者が参入してくることを恐れ、統合に反対しています。

ものごとをシンプルに考えればより多くの人が支え合った方がよりよい障害者支援ができます。
より多くの人が支えるという意味では福祉目的税もあるでしょう。
ただ、税は予算によって執行される点が保険と大きく違います。
財源が税になるとどうしても国によってサービス提供の枠がはめられます。

障害者自立支援法は介護保険との統合を視野に入れて設計されました。
介護保険による障害者自立支援を行う方が多様な参入を促すことができます。高齢者福祉サービスの実態を見れば明らかです。
支援費を義務的経費とし、国が必ず支払われなければならない費用としたことは評価できるものの、制度の先行きの不安が大きいことは否めません。
現状では介護保険への統合ができないまま支援費報酬の請求事務が複雑になっただけです。

肝心の介護保険も半分は税で補填されているため本当の意味で保険ではありません。
また、違法な介護保険請求をする事業者も後を絶たちません。
肝心の介護保険制度そのものも将来の維持が難しいため、統合の前に介護保険そのものも見直す必要がありますが・・・。

制度について建設的な議論がされないまま時間が経過すればするほど、町の中で放置されている障害がある人たちの暮らしがきしんでいきます。

がんばれ親の会

構造改革をストップし、福祉サービスをもとのようにもどしたところで、障害者が幸せになるとは考えられません。
構造改革は引き続き続ける必要があります。

これまで日本の福祉政策は新自由主義といわれる政策の体系のもとで改革が進んできました。
新自由主義は
1 国家による福祉・公共サービスを少なくして民間サービスにシフトする
2 規制を緩和する
3 市場による競争を促進する
グローバル化は新自由主義が世界全体に広がったものです。

もともと、日本は家族介護中心の福祉政策です。
「老々介護」という言葉に象徴されるように、日本は家族が介護することが強いられており、情報も十分に家族に届いていません。
構造改革を中断してもこれまでのように役所が福祉を提供する世界では隅々まで行き届いた世界が展開されることは期待できません。

知的障害者の世界には「手をつなぐ育成会」という存在があります。通称、親の会です。
このところ、親の会の組織率は全国的に低下してきていました。これは新自由主義による構造改革により
新しい福祉サービスが提供されるようになったことと関係があります。

これまでは福祉は国や行政から提供されます。
日本の場合には基本的に社会保障制度が申請主義になっているため、十分な情報提供がなされません。
家族介護中心の世界では親の会が情報の提供や施策の整備に役割を果たすことになります。

親の立場から見て、親の会に所属するメリットは、
1情報をキャッチすること
2親の会が経営する施設を利用しやすくなること
3親の会に所属することによって圧力団体としての力が強化され福祉施策が増進されることが期待されること
などがあげられるます。

新自由主義が浸透すると選択できるサービスが増加し、福祉サービスを提供する側からのアプローチが増えます。
そうすると、
1民間福祉サービスの広告活動により情報を主体的にキャッチする必要がなくなる
2民間福祉サービスが増えて施設利用がしやすくなる
3福祉施策が国や行政による福祉から民間の福祉に移行すれば圧力団体そのものの存在意義が低下する
など、親の会に所属するメリットが減少するはずです。

だからといって親の会が衰退していくことを親の会の会員が手をこまねいて待っているのは間違いです。
むしろ、これからあるべき福祉サービス市場を創出するために新規の事業を産み出していくことが求められているのだと思います。
新しい民間による福祉サービス、すなわち「福祉ベンチャー事業」は本来親の会から生まれなければならないと思います。

企業はこうした福祉ベンチャー事業に投資をすべきです。
例えば給食会社や食品関連会社、人材派遣会社、医療関連機器メーカーなどは投資により新しい商機を拡大する可能性があります。就労支援分野はより大きな魅力的な投資先です。

これまでは福祉施設整備によって利益を得るのは建築業ぐらいでした。
他の分野は指定された商品の入札をするだけで、指定された商品もつまらない時代遅れの商品だったりして利益はありませんでした。それが福祉ベンチャー事業の育成という投資行動により積極的に自社の商機を拡大することができます。

親の会には新しい戦略を求めたいと思います。
1地域企業への共同事業の創設に向けた積極的なプレゼンテーション
2魅力ある福祉市場を創設するために必要な障害基礎年金の大幅な強化を行政へ求めること
3福祉ベンチャー創出のためのアントレプレナーの育成
4福祉ベンチャーと企業の橋渡し
など、構造改革の時代にふさわしい親の会の運動戦略です。がんばれ親の会です。

快適な暮らしは自分でつくる

江戸の町は当時、世界最高の衛生的な生活環境であったそうです。
江戸の町の美しさは公的な仕組みで維持されていたのではなく人々が助け合って維持されていました。
例えば家の外の掃除は今のように清掃車が行うのではなく、一家総出で行いました。
十分な法制度はなかったかもしれないが、町の美しさを維持するための行政コストも必要ありませんでした。

施設は支援費によって維持されています。
利用料金は法令によって一律となっており、障害者の収入からすれば寄付金によって施設を改築することも難しい状況です。
支援費が削減されている今、施設はかかわりを持つみんなで維持することが大切です。

名東福祉会は家族会のご協力でそうした活動が盛んに行われている施設。それが伝統ともなっています。たいへん喜ばしいことでありなおいっそうのご協力をお願いたします。

職員にとっても掃除は家具や床についた傷を発見し、利用者が抱えている暮らしにくさや不便さや介護上の問題点を発見する機会にもなります。
掃除中に投薬されているべき薬が落ちているというというような重大なミスを発見することもあり、清掃やメンテナンス業務は介護技術の向上とならんで非常に重要な業務です。

施設は「住まい」。利用者もなんらかの形で掃除や家具の修理や自分なりの家具作りや部屋づくりを行うべきでしょう。
北欧のデンマーク郊外にあるファーラム市の障害者施設に見学に行ったとき、ユニットの外に続く庭でバラの花のまわりの落ち葉を拾っていた利用者の幸せな表情が印象に残りました。
利用者が積極的に施設づくりに参加できるならば、利用者にとっても施設のメンテナンス活動は楽しみな活動にもなります。

整理・整頓・清潔・清掃は生産現場の基本中の基本。就労支援活動の場においても汚れや道具の散乱は生産効率の低下を招き事故にもつながります。

レジデンス日進では数ヶ月前から統括本部長自ら敷地の清掃をしていただいています。
「毎日掃除を続ていてたいへんでは?」
と訪ねたら、毎日ご近所の人たちから声をかけられるので止められなくなってしまったと謙遜されていました。

かって障害者のグランドデザインで示されたライフスタイルは私達知的障害者福祉に携わるものからは非常に魅力的に見えました。
このところ示されている障害者自立支援法の方向性は障害者福祉のグランドデザインから離れつつあることが心配です。

障害者自立支援法については財政再建の圧力から支援費報酬の圧縮、障害程度区分の認定方法、障害者本人の自己負担を軽減することばかりに議論が集まりました。
本来ならば、社会福祉サービスの規制をさらに緩和させるとともに知的障害者の収入を上げることに議論の関心を向けるべきであるのに
そのような方向性の議論はまったく無視されたことは障害者にとっても福祉サービス提供者にとっても不幸なことです。

限りなく自己負担を減らしていけば、結局無料の福祉サービス利用という世界に行き着きます。
お上から与えられるサービスである限り、ニーズにきめ細かく対応する独自のサービス開発を行う意欲はわきません。
結局、利用者にとっては選択が保障されずQOLが向上することにつながりません。

知的障害者に真にやさしい障害者支援法であるためには
1 知的障害者の基礎年金を大幅に増やすなど障害者の貧困対策を行うこと
2 さらなる規制緩和を行い、福祉サービス開発の土壌を養うこと
3 良質な介護サービスが提供できるよう、評価システムを抜本的に改善すること
など、根本的な対策が必要です。

激変緩和措置により、よりよい福祉サービスのあり方を求めるムーブメントが下火になってしまうことが心配です。

地域福祉を考え直そう

最近福祉関係者で使われている「地域福祉」ということばは、「施設は解体すべき」という誤ったメッセージを社会に出していると思われます。
「地域福祉」は「制限された生活状況にあった障害者に対して、多様な選択肢の用意すべき」という非常にわかりやすい命題をメッセージにしたものです。
はじめはノーマリゼーションということばが地域福祉にかわり、最近では<地域移行>という、施設からグループホームやケアホームに生活の場を変えるべきという非常に幅の狭いことばに置き換わりつつあります。
時を経るに従って崇高な理念も形を変え、利用者そっちのけの様式だけがもてはやされる議論になってしまっていることが残念です。

入所施設=制限的とは限りません。
利用者の立場から見ればグループホームやケアホームの方が入所施設と比べてより制限的な生活を強いられることもあり得ます。

数年後には障害者自立支援法でどの入所施設も夜間の生活と日中の生活が分離します。日中生活や夜間生活の選択が保障されているならば、それが旧来の施設福祉に代わる障害者自立支援法時代の支援システムなのではないでしょうか。
数人の利用者で構成されるユニットが数ユニット集まり、全体で50人くらいの共同住宅であっても、生活の選択肢が保障されているならば地域福祉といってもかまわないはずです。
ある経営者は「地域福祉時代だからうちは積極的に利用者を外に出した。その結果、利用者が少なくなって困った。」といかにも高潔な経営をしているように話します。
福祉施設がニヒリズムを気取ってもいいのでしょうか。経営が困難になって結果的に倒産して脱施設と言い切れるのでしょうか。

もういちど地域福祉を整理して、施設で行われているサービスが利用者にとって制限的であるか選択的であるかという視点で自己評価をしなおし、その上で自分たちが提供しているサービスを胸を張って社会に報告するべきです。

内閣府副大臣の大村秀章氏とお会いしました。
「施設の話を聞くと日割り精算になって経営が厳しくなったという話ばかり。地域によっては4割減になったと聞きます。でも、そんなに利用していなかったのかというのが率直な感想です。日割り精算問題は一般の人たちには通りません。
その一方で親や障害者の方々とお話を聞いていると、どこに相談にいっていいのかまったくわからないという返事が返ってきます。
施設や社会資源の利用をもっと効率よくあげていくにはまずは相談窓口が必要なのではないかと考えています。それも自治体がやるのではなく、社会福祉法人やNPOがやるようにする。こうした窓口が整備されればもっと変わってくるのではないかと思います。」
なかなか手厳しいご批判とともに、的を得たコメントをいただけました。

名東福祉会でも名東区障害者生活支援センターを立ち上げ、名東区の自立支援協議会もゆっくりとではありますが動き始めました。
生活支援センターは相談を待っているだけではなく、直接家庭へ出かけていって相談を受けることもあります。役所の対応とは根本的に違います。
生活支援センターによって名東福祉会の各施設のケースカンファレンスのありかたにも影響がでてきたとつくづく思います。

最適な生活のありかたや支援方法を見つけることは難しいことですが、できるだけリスクが少ない選択をするには本人の希望を十分にくみ取ることがまずは大切です。
その上で家族やボランティアも含めた支援者の状況、利用できる社会資源、アクセス方法、制度に関する情報が必要です。

障害者自立支援法によって報酬が少なくなった、自己負担が増えてたいへんになったといった問題がクローズアップされました。
それらの問題は昨年度に打ち出された1200億円の激変緩和措置によって一段落しましたが、むしろ、ここで休むことなく積極的に障害者福祉サービスの充実に向けて動き出し、
本当の意味で障害者の自立が促進するような環境を作っていかなければなりません。
そのためにも相談窓口の量を増やし、質も高めるという施策は重要です。こうした生活の場に根ざした草の根活動を自治体職員が行うことは無理があります。

愛知県知的障害者福祉協会経営者会議は2007年10月7日(日)に社会福祉法人経営者向けに研修会を行います。
研修テーマは社会福祉法人の改革。
講師は先に紹介した衆議院議員大村秀章氏、厚生労働省障害健康福祉部長中村吉夫氏、日本知的障害者福祉協会会長小板孫次氏、愛知県知的障害者福祉協会経営者会議議長島崎春樹氏です。

正々堂々

「正々の旗をむかえることなく、堂々の陣を撃つなかれ」
<正々堂々>の語源とされている孫子のことばです。大儀を掲げている相手と対立し、陣容が立派な軍隊と戦っても勝つことは難しいので戦いを避けなさいという意味です。
正々堂々とした軍は戦いには敗れないというように使うこともあります。
社会福祉法人には使命が必要。
今、社会福祉法人は財政難で危機を迎えていますが、この難局を乗り切るにはやはり事業の使命感が必要ですし、使命を達成するという意識が私たちを堂々とさせてくれます。
私たちの旗は障害を持った人の生活の質を高めること。
生活の質の向上は私たちスタッフやボランティアや家族が「正々堂々」としていることから生まれると思います。
生活に楽しさが広がるように日中活動の選択肢を増やし、生活にまつわる様々なトラブルやストレスを軽減し、
必要とあればそのための幅広い支援活動を行い、生活の質を高めていくことが私たちの使命です。
このQOLを高めることが私たちの正々の旗です。そうした活動に賛同してくれる人たちが堂々の陣をつくります。
こうした活動を続けていれば今の難局などいずれ乗り切ることができると確信しています。

障害者雇用促進法は常用雇用者五十六人以上の民間企業に対し、身体障害者や知的障害者を一定割合(常用雇用者の1・8%)雇用するよう義務付けています。ところが、これまで常用雇用者三百人以下の中小企業は対象外となっており、中小企業の障害者雇用はなかなか進んではいませんでした。

厚生労働省によると、来年の通常国会に障害者雇用促進法の改正案が提出され56人以上の民間企業でも適応されるように法改正する方針とのことです。これで社員300人以下の中小企業も雇用率を達成しなければ罰金を支払わなければならなくなり、逆に雇用率を達成すると報奨金がもらえるようになります。

障害者の雇用については中小企業が障害者多数雇用事業所を共同出資し、そこに就労している障害者を雇用率にカウントできるようにする案も出ています。障害者自立支援法では雇用型の施設である就労継続支援A型事業が用意されています。これまで障害者雇用には無関心だった中小企業も障害者雇用に関心が高まることが期待されます。今後は障害者雇用の場をめぐる法制度の動きから目が離せません。

天白ワークスが多機能型に移行します

天白ワークス(旧体系:通所授産施設)が2007年の10月より新しい法体系の施設に移行します。具体的には生活介護施設(定員25名)と就労継続支援B型(定員10名)の施設の多機能型施設となります。

この施設体系を選択したのは現状の施設利用者の利用実態に最も近いことが理由です。実践的な製パン作業は昭和60年の開所以来導入された作業ですし、天白ワークスから離れた場所にサテライトのワークサイトを設置して営業するなどの実践を行ってきています。昨年度は、新しい施設体系への転換も目指してすでに名古屋市から精米機の導入の補助金もいただいています。むしろ、これまでの実践の集大成として多機能型を選択することは必然ともいえます。

ポイントとしては生活介護のみを選択するのではなく、生活介護と就労継続支援B型との多機能型にした点です。天白ワークスでは障害の重い人たちのためのゆったりとした生活の介護のあり方や働いて工賃を得たいという人たちのニーズに合わせた作業のあり方など多様な生活ニーズをどうやって満たしていくのかを模索してきています。

障害者の雇用を促進するという観点や自立支援という法律の精神からは、就労継続支援B型ではなく利用者との雇用契約を結ぶ就労継続支援A型や一般企業への就労を前提とする就労移行支援が望ましいかもしれません。ただ、現在天白ワークスを利用している利用者の家族会からは一般雇用を求めている声はほとんどありません。法律の精神が一般雇用を求めているからといって、利用者がそれを求めていなければ無理に雇用へ突き進むことは難しいはずです。そうした声に答えるため、天白ワークスは現在の通所授産施設にもっとも近い「就労継続支援B型」を選択しました。

就労継続支援A型は報酬単価はもっとも低い反面、より企業に近い雰囲気で仕事をする施設であり、工賃も多く支払われる施設です。利用者だけではなく職員も売上の中から給料が支払われる仕組みとなっているからです。しかし、このタイプの施設をつくるには既存の授産施設の看板を付け替えるだけでは難しいと考えます。特に名東福祉会では企業的な経営ノウハウの獲得が必要です。イメージ的には工場ですから、0ベースで新しい施設をつくっていく必要があります。名東福祉会では今後、企業とのタイアップし、名東福祉会と中小企業とのコラボレーションで既存の施設の転換ではなく、新しい施設として就労継続支援A型の施設づくりを検討してまいりたいと考えています。

所長会でケースカンファレンス

障害者自立支援法では複数施設を利用することを前提としているため、今後、個人のニーズに合わせて最適な施設サービスを利用するため複数の施設を利用する人たちが増えていくことが予想されます。例えば夜間施設と通所施設の相互利用や就労継続支援施設と生活介護施設の相互利用したり、昼間は就労継続支援施設を利用し夜間はケアホームを利用するというような利用方法を想定しているのです。

生活のあり方やサービスを自ら選択できることはQOLを高めるために決定的に重要です。障害者自立支援法の場合、食費や施設利用に関する自己負担の問題、報酬単価の切り下げ、障害程度区分の問題があり、これは大いに批判すべきですが、生活のありようを自ら選ぶことができる仕組みそのものは歓迎すべきです。

そもそも、特定の尺度によって測られた「能力」や「障害程度」が「本人が望む生活のあり方」を規定するものではありません。障害の程度を前提とするのではなく、生活のニーズに即してサービスを試験的に利用したり、福祉的な就労場面にチャレンジすることが必要です。

障害者自立支援法時代の福祉サービスの提供者の責任は、そうした利用者の新しいニーズに応えるため、多様な選択肢を提供することであると考えています。これまでの施設単位のケースカンファレンスや、施設単位の家族会の支援は限界に来ていると思われます。

そこで問題となってくるのが施設の情報交換。これまでのようにひとつの施設で完結していた時代とケースのカンファレンスも変えていかなければなりません。そうした実態にあわせ名東福祉会の所長会は施設の枠組み超えたケース検討会の機能が強くなっています。

新しい時代の課題に答えるためには所長会のあり方だけではなく、家族会の意識改革、情報通信技術の利用、外部機関との連携等、解決しなければならない問題が数多く存在します。本格的な制度移行のために残された時間はわずか。これまで以上に改革を進めていくことが必要です。

楽しい施設ライフをつくる

■「正の強化」で利用者のQOL向上をめざそう

障害者自立支援法で日中生活の場と生活の場が分離しました。今は施設の建物は昔のような規制はありません。国庫補助金を使って建物を建てるのではなく、町の店舗や民家を利用して地域の中の資源を利用していくことができます。でも、どうせやるなら楽しくやりたい。こんな時代だからこそいろんな人たちを巻き込んで、毎日を楽しく明るく過ごすことが大切だと思います。
楽しく活動できる場を増やしていくことがこれからの日中活動の場作りのポイントとなると思います。

「楽しさが増すこと」は、支援技術の世界では「正の強化で維持される行動の機会を増やす」ことと考えます。
行動には3つの側面があります。A:先行事象(きっかけ)→B:行動→C:後続事象
C:がBに続いて起こるとBがだんだん増えていく。これが正の強化です。

施設の中に、「正の強化で維持される行動の機会」をふんだんに設け、増やしていくことが支援の目標です。
別のいいかたをすると「罰によるコントロールがない施設ライフ」をどうやってつくっていくかです。
「楽しさ」とはやや趣を異にしますが就労継続支援や移行支援についても報酬という正の強化があります。
いずれにしても利用者も職員も、罰をさけるためにその活動に参加するのではなく、それをしたいからやる。楽しいからやる。そういう機会をいたるところに設け、そのなかから活動を利用者に選んでいただく。これが楽しい施設ライフです。そうした施設環境の生活は自由も感じることができます。

特定の利用者は楽しいんだけれど、まわりにいる利用者は迷惑千万では困ります。いわゆる問題行動ですが、問題行動についても正の強化で維持される望ましい行動を増やすことによって問題行動を減らすことができます。施設ライフを利用者も施設職員もみんながエンジョイできる活動-それが楽しい施設ライフであり「正の強化で維持される施設環境」です。

■「わいがや」で楽しい日中活動を

先日、メイグリーンの跡地をどうやって利用するかについて話し合いがもたれました。
天白区でパン屋さんをやっていた稲熊さん、支援スタッフが集まりミーティングが始まりました。そこへたまたま立ち寄ったケーキ教室を主宰している林さんも加わり、「わいわいがやがや」となったそうです。
いろいろと楽しい企画が検討されました。パン屋さん、ケーキ屋さん、ボランティアの集会所や行動療法の研修会場など多彩なアイディアが出ているとのこと。知的障害者のための魅力ある日中活動拠点として大いに期待されます。

現在、日本の各地でこうした企画が進んでいます。
京都市伏見区の知的障害者通所授産施設「ぐんぐんハウス」では冷やした焼きいものスウィーツを販売しています。焼き芋づくりは14人の利用者が担当。
材料のサツマイモを水洗い、塩水に浸し、グリルで焼き上げ1本150円。注文を受けて届けたり総合支援学校に販売しているそうです。

埼玉県の身障害者地域デイケア施設「工房森のこかげ」では手作りのパンの販売を始めています。老人センター、JAが協力して特産のコマツナを練りこんだ小松菜食パンやクルミ食パンなどを販売。
人気は「こまちゃんゴマあんぱん」(120円)で黒ゴマあんにクルマ入りだそうです。

社会福祉法人「時津町手をつなぐ育成会」(山内俊一理事長)が経営する障害者多機能型事業所「エリア21」ではレストランのほか、作業所や農園でも研修を積み、実社会での就業を目指しています。
レストランの営業は午前11時から。手作りの和食料理(1200円と2000円の2種類)や子ども向け(650円)の料理を日に30~35食用意しているとのこと。飲食店経営は難しいのですが、自分たちがもっている資源をうまく活用し運営に生かされているようです。

障害者自立支援法時代を迎え、これからの施設づくりはこれまでとは違うノウハウが必要になってきます。
人材難や財政難があります。こうした時代を乗り切るためには魅力ある「場」づくりが必須でしょう。多くの協力者を必要としています。できるだけ楽しい活動を展開し、協力者を得ながら地域活動を展開していくことが私たちに与えられた課題であると思います。