やりとりの深化をめざす

自己決定の権利はヴォルフエンスバーガー(1980年代)の時代からある考え方で、ノーマライゼーションの究極の概念でした。このころは最終的な目的が「脱施設」とか、「統合教育」というような形の上で「普通」が求められていました。本質的には個人の自由を保障する権利の問題となります。

そのころ、「普通の時間にお風呂に入る」とか「個室が普通」とか「3食が普通だ」とかいうように、「一般的な生活習慣」を福祉実践へ導入する事がノーマライゼーション実践として重要視されました。1990~2000年ごろの話だったように思います。もちろん、今も知的障害者の福祉施設では継続されています。

しかし、「普通化」という実践は、もちろんそれだけでは物足りなくなり、行き詰まりを見せました。アメリカでは、その後、Quality of Life(QOL)の原理へ移行します。「いくら形が普通でも利用者本人が不満があったらだめでしょ。満足を追求しなければ」ということになりました。日本では「グループホームをつくったはいいけれども、中身は小さな入所施設じゃないか」というような形にやや囚われた批判が続きます。

ところがQOLの概念が登場すると、本人の意思確認よりも「本人の満足」が課題となります。これは、「個人の自由とか人権」といった概念や知的障害者本人が政策提言したり、知的障害者福祉協会や育成会で本人部会ができるといった自己決定実践報告ともからみあってやや過激に深化していきました。

ただ、現場においては重度の知的障害者が多く、ましてや福祉施設における満足にとどまったため、「自己決定」を支援するだけでは必ずしもQOLの向上につながるとは限らないという問題が生じたと思います。「食べすぎちゃってもそれは自己決定」とか「他害行為や自傷行為をする事もそれは自己決定か」というように迷路に入り込んだりしました。所詮、施設の中で限定的に満足を充足しても、地域社会とのつながりの中で満足が実践されなければままごと的な
議論に終わってしまうという問題が露呈してきます。

そしてその議論は成年後見などとも絡んでいかにもややこしい議論を続けています。そもそも自己決定できない人の自己決定支援ですから言葉自体がパラドックスを抱えて現在に至ります。

どうもノーマライゼーションという教室の「個人主義」というホワイトボードの上で、権利という概念を横軸にして、自己決定を立て軸にして福祉実践をすると、現場は混乱するばかりで最後には「机上の空論」の議論に陥ってしまいがちなのではないかというのが僕の感想です。「権利」と「権利擁護」は違うというご質問もこうした前提の上で展開された図表の上でいくらでも違いを論じることができます。でもノーマライゼーション教室の外にいた人は
「どうでもいいんじゃね」
となりかねません。

そこに昨今のように、「行き過ぎた戦後個人主義やポピュリズムが福祉を拡大し、国をだめにしているんだ」という議論がからんでくると自己決定はいったい何の話をしていたんだっけということになり、現場はどうすればいいのかわからなくなってしまうわけです。

ここで、私たちの福祉現場の理念を、自己決定(self determination)支援や自己権利擁護(self advocacy)という外国からの借り物の概念ではなくて、「家族や共同体のなかでのやりとりの深化」という目標にする必要があるように感じています。これはもともと我が国で伝統的に実践されてきた「和」の福祉概念でもあるように思います。

知的障害者の言語訓練や就労現場での訓練や生活の質の向上を目指したあたりまえの実践が、これまでの権利とか自己決定とか権利擁護とか自己決定ができない人のための成年後見とか、ややこしい議論を回避することができます。しかもその瞬間から、目の前にいる人とともに「生活の質の向上」に向けた実践につなげる事ができるのではないかと思うのです。もともと障害は社会的なものですし、本人が抱える課題としての側面もあります。教育と福祉の融合というとちょっと大げさですか?

コミュニケーション行動の場合、本人の訓練だけではおさまらず、必然的にまわりの人たちの変化も要求しますから、結果としてまわりも変わらなければならないし、まわりが変わる事によって本人も変わる。やりとりは行動的ですし、やりとりの深化や、そのための支援であれば、家族や共同体や国をつなげる概念とも統合することができ、これからの福祉実践に組み入れていくこともできるのではないかということで、

「自己決定を権利擁護の文脈でとらえるのではなくて、本人とまわりの人とのやりとりの深まりという文脈でとらえる必要があります。この例のように。」とコメントさせていただきました。言葉足らずで、どうも。