奈々枝さんを追悼して

多くの人にご会葬いただき、誠にありがとうございました。

母、奈々枝は兄が障害を持って以来、56年間、障害がある人の幸せを願い、一日たりとも休まない人でした。休日で旅行に行ったとき施設の見学を怠らず、お土産屋や食堂に入っても授産製品のヒントを探していました。起きている時の話題はすべて福祉に関する事ばかりで、正に障害を福祉に捧げた人であったと思います。

奈々枝さんは昭和3年に東京で生まれました。奈々枝さんの父はもともとは伊勢神宮にゆかりのある英虞湾に面した村のある小さな神社の宮司の家系の人でした。奈々枝さんの育て方は奈々枝さんが長女であったこともあり、たいへん厳しかったようです。奈々枝さんの母は93歳まで生きた方ですが明治生まれの武家の人でしたから、ひととおりのたしなみを身につけるためにこれまたたいへん厳しい育て方をされたと思います。

戦争時代に入ると、奈々枝さんの父は病死し、兄は陸軍の学校に志願した後、戦争で亡くなり、奈々枝さんは兄弟を背負って戦争の中を家族を守って生きる立場になりました。奈々枝さんは看護学校に入り、戦争中は看護婦の見習いとして奮闘しました。住んでいた大阪の和泉市が焼夷弾で攻撃されたとき、なすすべもなく死んでいく人たちの看護はとてもたいへんだったとのことです。

戦争が終わり、兄が生まれてからの障害者福祉に関する奮闘ぶりはここで紹介するまでもないことですが、正に筋金入りの日本女性だったことに違いはありません。

奈々枝会長の功績は、前半の30年はわが子の障害の治療や教育を通じ、社会の問題と向き合った時代でした。この時代に、名古屋市に様々な福祉制度が生まれましたが、ほとんどの障害者福祉制度にかかわりを持ちました。特殊教育の関係機関とも強い連携を持ちました。また名古屋手をつなぐ親の会の創設にかかわり、社会福祉法人化を成し遂げるまで発展させたことは大きな功績だったと思います。名古屋市の福祉施設に対する民間福祉施設運営費補助金についても、親の代表としてかかわりを持ちました。里親制度や相談事業、いこいの家など、当時としてはとても進んでいたもので、この制度によって優れた人材が名古屋から多く排出されたことは否めないと思います。

後半の30年は理想とする地域福祉の実現に向け、名東福祉会を創立し、地域の先頭に立って実践を継続したことだと思います。メイトウ・ワークス、天白ワークス、はまなすと次々に通所施設を建設し、障害がある方の学校卒業後の対応にあたりました。また、親の高齢化に備えレジデンス日進や上の山ホームを創設しました。
活動の場は変わりましたが、60年近くの長きに亘って、仲間の親と力を合わせ、わが子が地域の人たちとともに生きていくことができるよう命をかけた人生だったと思います。

戦後日本の障害者福祉の歴史とともに歩みましたから、福祉の実践家としても第一人者でしたが、いろいろな大学で福祉講座を持つなど一流の教育者でもあったと思います。しかし本人は母親という立場を意図的に離れないようにしていました。親としてあるべき姿を常に追求していたといってもいいと思います。

武勇伝も数多くありました。まだ日本に障害者の施設が数えるほどしかなかった頃のことです。複数の人たちとともにある入所施設を利用する事がありました。障害児の療育がうたい文句の施設でした。子どもを預けたものの、どんな「療育」を受けているのかが気になり、入所して数週間経ったころ、施設をこっそりと訪れたそうです。その施設の処遇を裏庭から見ると、療育とはかけ離れた生活がそこにありました。愕然とし、即座に「集団脱走」を実行したそうです。その当時の入所施設は予算的にも人材的にもまったく不十分でしたし、そもそもその頃の福祉には社会からの隔離という概念しかなかったものと思われます。その時、その施設から抜け出した人たちとは終生関係を持ち続けました。

子どもたちの療育に対する強い感心は早い段階で生まれていたのです。その後、名古屋の特殊教育の充実にたいへん熱心に活動しました。たまたま私たちの家庭があった中学校区に川崎先生という優れた特殊学級の先生が赴任していましたので強い絆が生まれました。養護学校や特殊学級と親の会の関係の構築に尽力し、そのときの活動が現在の名古屋市の親の会の教育参加意識に繋がっていると思います。

手をつなぐ親の会の社会福祉法人化の際には、厚生労働省まで乗り込み、「認可を受けるまでは死んでも帰らない」という態度だったようです。そうしたバイタリティや純粋さは多くの協力者を生みました。

そうした武勇伝を聞くと、いかにも好戦的な女性だったかのように思えますが、実際にはまったく静かな穏かな人でした。争いごとを好まず、人の話を聞く事を好みました。会って分かれるときや電話で話した時には最後に「ありがとうね」と必ず言いました。失敗しても落ち込まないで「なーんとかなるわ」と節をつけて言うのが口癖でした。

立派な先生に会えると本当に感謝しました。そうした先生のお話を聞く場合には必ずノートをとり何度も何度も読み返し、私に教えてくれました。そうした謙虚さも最後まで併せ持った人でした。

障害者福祉の世界はもちろん、楽しいことばかりではなく、毎日事件が起こります。その度に、親同士の反目があります。それに対してどうしたらよいのかを毎日気に掛けました。争い事は仕方がない事ですが、争いを乗り越えて皆が和(なご)むことが奈々枝さんの願いでした。「親が範を示さねばならない」と、地域の人たちに力を合わせる姿を示すことができるよう、バザーをやったり、喫茶店を経営したり、いろいろチャレンジしました。そうして次第に地域に溶け込んだ生活がもたらされるようになったのです。

これは「大和(やまと)心」といってもいいかもしれません。それぞれの地域には地域独特の結束力のようなものがあり、伝統があります。地域の習慣を無視して利用者の生活はあり得ません。奈々枝さんは日進市に居を構えて20年以上になりますが、「まだ地のものではないと言われる」と、決して地域の一員としての生活に気を緩める事はありませんでした。

私はこの「和(なごみ)」の世界に、個を大切にする生きかたも、権利擁護も、社会参加もすべての福祉理念が包含されると思うようになりました。

会葬が終わり、遺骨はレジデンス日進の役員室に帰ってきました。奈々枝さんの本来の終の棲家はレジデンス日進であると思うからです。レジデンス日進の屋上からは日進市を見渡すことができます。彼女がまだ元気だったころ、ハーブが咲き乱れたレジデンス日進の屋上に上がり、夕日に輝く美しい景色を見る事をこよなく愛していました。これからも私たちの母として、レジデンス日進に佇み、いつまでも私たちを見守ってくれればと思います。