昭和42~3年ころの話だったと思います。この頃の親の願いは知的障害があっても学校教育を受けられること。養護学校義務化の法案が通り、名古屋ではすでに多くの特殊学級ができていました。

でも、せっかく通えるようになった学校ですが、特殊学級は学校の中で孤立しているというのが親たちの間で大きな問題になっていました。孤立しているのは生徒たちだけではなく、先生も親も孤立していて、ほとんど交流はなかったのが実情です。

それでも非常にユニークな「名物」の特殊学級担任がたくさんいらっしゃいました。学校での特殊教育が楽しく実りあるものになるためには他の生徒さんたちとの交流が非常に大切であることを、その当時から特殊学校の担任の先生たちはご存知であったのです。反面、特殊学級に配属されたことを非常に落胆され、どう手をつけていいのか考えあぐねている先生たちも多くいらっしゃました。

名古屋手をつなぐ育成会の事務局長をしていた関係で、特殊学級に在籍している親から相談を受けたことがあります。
「PTAの役員になって特殊学級の先生たちを孤立させないようにしたり、生徒を暖かく迎える雰囲気作りを特殊学級の親たちが率先してやってほしいのです」
と切り出しました。
「でも、学校では特殊学級の親はPTAに入っていません。だから役員にはなれません。」
「校長先生と話をするような機会はありません。」
そんな答えが返ってきました。どんなに自分の子どもが悪いことでもすぐに校長先生に怒鳴り込む今の時代とは全く違っていました。

特殊学級の担任がおかれている厳しい孤立感や疎外感、親たちが感じている悩みをいろいろな人々にお伝えしているうちに、私は名古屋市の教育長とお話をすることになり、結局、学校校長会で特殊学級の実情を話す羽目になりました。

その後、知恵遅れの人たちをなんとかしなければならないという雰囲気が生まれ、「ちえの友鉛筆」という鉛筆の共同購入運動を学校を通してやっていただけることになり、手をつなぐ育成会の収益となり、その後の障害者授産施設建設のためにたいへんありがたい結果となりました。ただ、ちえの友鉛筆の運動は特殊学級担任自身の反対者もあり、知的障害がある子どもたちが支え合って健やかに生きていくという目的には遙かに遠い道でした。

2007年7月15日 | カテゴリー : ななえ日記 | 投稿者 : 加藤 奈々枝