選択という道具

知的障害者の施設で選択を重要視するのは
・現代では選択は自由と民主主義の本質と考えられている
・従って、権利を擁護するためには選択可能性は必須ではないか
と考えてきたからです。しかし、選択には様々な欠陥があります。いいかえれば、選択してもらったからといって権利が保障されているわけではないということです。

その理由としては
・選択セットの中にろくなものがないかもしれない
・好んでした選択を繰り返した結果、長期的には本人にメリットがもたらされないかもしれない
ということがあるからです。従って、選択を提示するにしても、
・長期的な選択(少なくとも数年間)の提示
・中期な選択(数日から数週間)の提示
・短期的な選択(数時間)の提示
のすべてのレベルで確認が必要となります。そして確認の際には、「選択肢の中にいいものがありません」という選択も認められていないといけません。せめてこれくらいは、選択のときにやっておかなければなりません。

もちろん、短期的な選択しかしていない福祉サービスにとっては上記の事に気づき、改善する事はある程度意味があります。
しかし、ほんとうのことをいうと、日常の場面で、どっちを選ぶのかはどうでもよくて、「僕はあなたを選んでいるのだから、あなたが決めてください」ということが多いのではないのでしょうか。

福祉サービスの提供者だけではなく、教育者、医者、警察官、役人、議員、消防士、自衛官、海上保安官も実は、<今目の前で助けを求めている人>にどのような手助けをすべきなのか選択をゆだねれられています。実は、選択の設定を含めて選択の本質的な責任は選択の提示側にあります。極限の場面では、選択をゆだねた人間に従うしかないのです。知的障害者の福祉施設では、このことを意識する必要があるように思います。

どんな教育内容にするのか、どんな支援内容にするのかを決めるのは教育者や支援者だという意識と責任感がなければ、いい支援や教育ができるはずがありません。

私は選択という道具は必要ないというのではありません。むしろ、生活では常に選択を求められます。そのとき多様なレベルで「選択をゆだねられた人間」が生じます。特に、共同生活では。

選択をゆだねられた人は、遠くの目標を定めて、近くの道標を確認し、それに向かうためのよい方法を提示し、その意図や結果を本人に確認するしかありません。他者に道を選ぶ事をゆだねられた人はそれはもう身を引き締めて道を選ぶしかないのです。その意味では細かく政策を決めてから<契約選挙>を行うマニフェスト選挙も本当は間違いです。本当は、自分が任せても大丈夫だと思う人に政策づくりをゆだねて後は責任を持ってやってもらうしかないのだと思います(おっと、脱線!)。

選択を提示する側も、提示される側も完全ではないことは承知の上です。そこをなんとかやっていかなければならないのでしょうね。それが現実の生活です。私は、選択はそのようなものだと思います。

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