障害者ケアマネジメント従事者指導者研修

国は障害者ケアマネジメント従事者指導者研修を行っている。この研修に参加するものはそれぞれの県の推薦を受けて国が主催する指導者研修に参加する。
その指導者研修に参加したものは、地域の研修を行い、学んだことを地域の障害者ケアマネジメント従事者に対して研修を行うことになっている。

今回、名東福祉会のこのブログのとなりの小島一郎の支援センター日記」のブログ主が参加することになった。

その際、
・都道府県研修実施上の課題と解決方法
・都道府県自立支援協議会と研修実施の関係
に関する事前報告レポートを提出することになっているという。たいへんな課題だ。

そこで、おこがましいが、せっかくの機会なので、福祉サービスの提供者側の人間として、国の障害者ケアマネジメント従事者研修のあり方について、ひとこと言わせてもらいたい。

私は、研修上の課題は、障害者ケアマネジメントの理念が従事者に浸透しにくいことであると思っている。障害者ケアマネジメントの基本理念は
1 ノーマライゼーション
2 自立
3 主体性・自己決定
4 個別支援
5 エンパワメントの促進
だ。これまで、誰もがどこかに違和感を覚えながら、それでも国の方針であったし、自分自身もそういうものだと思っても来た。ではあるが、そもそもこの基本理念が日本の社会に合致しているのか?を冷静に考えてみると、やはりどこかおかしい。

障害がある人のQOLは自立や、就労やそれにともなう収入の向上によって必ずしも高まらない。
障害者の主たる社会資源である施設を否定的に考えている。
生活の充実は帰属する集団の一員として擦りあわせを通じ、連帯感を形成していくときである。それが施設であっても構わない。
国から提供できるサービスが貧弱であっては計画の立てようがない。
本人の独善的な主張を押し通してもかならずしも本人の幸せの増大に結びつかない現実がある。

こうした違和感には目を瞑り、これまで、地域や家族の連帯感について障害者ケアマネジメントは意識的に避けてきた節がある。

一方で、今、日本では、グローバリズムや構造改革への強い批判が行われている。これまでグローバリズムがもたらした、日本の伝統や、地域や企業の結束が分断されてしまっていることに対して揺れ戻しが起きている。
これは別の言い方をすれば、ナショナリズムの台頭といってもいい。

私はナショナリズムが悪いといっているのではない。そもそも、どの国もいまやナショナリズムをもとに動いているし、グローバリズムももともとはアメリカのナショナリズムの具現化の装置ともいえる。そういう時代において、福祉もナショナリズムとは無縁であり、この国民的意識を避けて福祉資源を検討しても見当はずれになってしまうということを言いたいにすぎない。

ナショナリズムは、その成員の結束を高める方向に動く。そのため、成員の中に弱者がいれば必ずその人を救う方向に力が働く。そうでなければ、国家が霧散してしまうからだ。相互扶助や、自助の精神は、もともとナショナリズムとは矛盾しない。日本が手本としているといわれる北欧のスウェーデン、ノルウェー、デンマークはナショナリズムが強い国であるし、障害者ケアマネジメントの手本となっているイギリスはさらにナショナリズムが強い国家だ。そのナショナリズムを基盤としたうえで、徹底した地域の自助があり、その上に高福祉高負担社会が実現している。

障害者に対するサポートをマネジメントするという発想は必要だとしても、本来、大前提として私たちの国に、自助の精神がなければ、社会福祉の資源など瞬く間に枯渇する。

これまで社会福祉行政でナショナリズムを徹底的に否定し、グローバリズムを賛美し、アメリカ型の福祉を目指し、自由と個人主義に意識を集中してきたために、障害者のケアマネジメントの資源がどこにも見つけられないという矛盾に至ったとはいえないのだろうか。自助の精神や相互扶助の精神を「権利擁護」という概念で壊してしまったうえで、障害者ケアマネジメント従事者に、障害者をサポートするための社会資源を開発することが使命であることを「研修」してもどうにもならない。

ここでは、問題を解決するための手がかりは自助や相互扶助の精神を醸成するための地域に残された遺産を活用すること。それは地域の伝統的施設かもしれない。自立支援協議会ではなく、村の寄り合いや商店街の会合かもしれないし、町工場の勉強会や消防団なのかもしれない。そうした地域ごとの遺産を活用するための施設実践を重視し、家族会活動や地域活動や、それを側面から支えていく地方行政のあり方にあるのではないかとだけ述べておく。

セルフヘルプ

自立ということばは「セルフヘルプ」の翻訳として使用されてきたように思う。つまり、自立とは自分自身の努力とか能力による、自分自身の問題を解決するための行為というような意味だ。

日本では近年、「自立支援」という言葉ができた。
「障害者自立促進」ならまだわかる。
「障害者支援」でもいい。
ところが、障害者自立支援となるとこれは難しい。
ちょっと意地悪く自立(セルフヘルプ)の本来の字義を解釈してみれば、「人助けが必要な人を、人助けされなくてもいいように、人助けする」となる。自立支援がややこしくて意味がわかりにくいことばであることがわかる。

この事は教育的な場面や治療的な場面においてはわからないでもない。教育現場では、療育によって自立の可能性を広げていく目的があるからだ。だが日本の福祉現場で大切にしてきた「ともに生きる」という観点からは、これらの考え方には違和感があることは否めない。

いかに優秀な教育者や治療者が現われ、新しい教育技術が開発されたとしても、障害そのものはなくならない。むしろ、教育・治療活動の成果があがれば上がるほど、障害とともによりよい生き方ができる社会のあり方を求めていく「ともに生きる」という考え方がなおいっそう重要になる。

これは日本人が古くから大切にしてきた博愛と公益の精神でもある。もちろん昔の福祉が今より優れていたというのでない。ましてや昔に戻れと言うのでもない。

私たちの社会は本来、わざわざ自立支援というようなややこしい概念を必要としないような懐の深い社会であった。少なくとも明治時代には私たちの社会は家族が力を合わせ、友がお互いを信じあい、ひとりひとりが進んで博愛と公益を広めていくことが美徳であり、そうした徳のある行動を教育の場面で育もうとしてきた社会であった。

福祉の制度が時代の要請に合わせて調整と擦り合わせを繰り返し、変化していくことは必要である。しかし同時に、変えてはいけないものもある。ひとりひとりの成員が、もてる力を発揮しあい、それぞれができる範囲で、障害がある人とともに歩んでいくことの大切さはこれからも決して変わることはない。