親子で入れる福祉ホーム

会員の方々が最近「親子で入れる福祉ホーム」というコンセプトで高齢者福祉を望む声がでてきている。高齢期に入った親がそうした要望を持つようになることは極めて自然な発想だともいえる。名東福祉会への期待の大きさを表しているのかもしれない。

過去30年間の間に、名東福祉会には高齢者福祉事業に乗り出さないかという話が何度も来た。
経営が立ち行かなかった高齢者施設を委託したいとの話やある中堅商社が福祉事業に乗り出すので高齢者福祉をやらないかという話、土地を寄贈したいので高齢者福祉をやってほしいという話などいろいろだ。

なかには本気でやってみるべきかも知れないという案件もあった。だがその度に結局、高齢者福祉事業は行わないという結論に達している。
理由はそれぞれあり、それぞれ異なる。
でも本当の理由は、当時から現場職員のリーダーとして勤務してきた自分にとって高齢者福祉をやる使命感が持てなかったからだと思う。
福祉事業を引き継ぐ人間に使命感が育たなければ福祉事業はできない。

高齢者福祉の世界には自分にとってはどうしてもやらなければならないという純粋な使命感はもてない。
もしやるとすればどうしてもビジネスとしての収益性を判断して乗り出すことになる。
だが、福祉である以上、収益性は高齢者福祉といえども低い。近年の医療・高齢者福祉改革はかってのような高収益率を許すほど甘くはない。

知的障害者福祉も高齢者福祉も、福祉の理念において本質が変わるものではない。
具体的な介護技術に差異はあるけれども、基礎的な支援・介護技術においてさほど差があるわけではない。
しかし、単に技術論の類似性や収益性で高齢者福祉を行うための使命感を持つのはやはり無理だ。

理事長としてなんとか青息吐息でこの業務を続けられるのは、我が子が救われたり成長することに無償の喜びを感じる親がそこにいるからだ。
無償の福祉をやるには他者のために無償とはいわないまでも、意気に感じて行動をともにする同士も必要だ。

親子で入れる福祉ホームのコンセプトはほのぼのとした幸せを感じるかもしれないが、ほんとうにほのぼのとした生活がそこに待っているのかをよく考えなければならない。
コストやケアの難しさを考慮せずに事業化すれば、実際に入居したら<現実は甘くなかった>となりやすい。またそうした不満が出やすいのもほのぼの福祉の世界ではないか。

やはり社会の成員が共同負担して成り立っている福祉事業は、まっさきに救済すべき人を救済することを優先するべきだ。
名東福祉会が高齢者福祉に乗り出すとしたら、もう少し経営者の世代が代わらなければならないのではないかと思う。

選択肢の多さと消費者の満足

普通は選択肢が多いと満足すると考える。実際にはそうはならない。
実際には選択肢が増えれば増えるほど、消費者の満足度は減って行く傾向がある。

行動経済学という分野の学問がある。
経済を動かしているのは理論的に欠陥がない人間ではなく、感情をもった不合理な判断をする人間だという前提のもとに
これまでの経済学を行動に視点をあてて組みなおした経済学だ。

選択肢が多いほうを選ぶのが合理的な判断だが、人は選択肢が少ないほうを選んでしまう。そのような「選択のパラドックス」が存在することを行動経済学は教えている。

知的障害者の地域福祉においても同じようなことがいえるのではないか。食事の選択メニューにはじまり、作業の選択、余暇の洗濯、住む場所の選択・・・といろいろと選択肢が拡大していく。

選択肢がないことは大いに問題であり、「措置」はまったく自由が阻害されているため問題があった。
だが私たちが常識としている施設生活の選択性に価値があるという考え方にも問題はないか。

両親とともに家庭で生活する、グループホームで生活する、新しくできるケアホームで生活する、レジデンス日進で生活するという4つの選択肢でも精一杯だ。それ以上の選択ができる状況になると、ひとつひとつの場所の満足度が逆に低下しそうな気もする。

「毎日働く場所を変更することができます。」
消費者としての権利が護られているかに見える支援費の日払い制度。実際には日替わりで利用する施設を変更できることを喜ぶ知的障害者は少数派だろう。
ひとつの施設を選択できる日数は1ヶ月で23日を限度とすることも理解できない。(というか予算の都合以外のなにものでもないが)
選択という美名のもとに実際の利用者満足が阻害されていくとしたら、私たちは大いに反省しなければならない。

まだまだ障害者福祉は足りない

平成19年12月7日に障害者自立支援法の抜本的見直しに関する与党プロジェクトチームの報告書が出た。
3年後の見直し時期を迎えたとしても、とりあえず急速に名東福祉会の経営状態が悪化することだけはなくなった。

ただ安心しきるのは早い。報酬単価の見直しが盛り込まれたものの、ケアホームや通所サービスの報酬単価がいくらになるのかについて、はっきりと示されたわけではない。
むしろ怖いのは、私たちがこの状況に安住してしまうことではないだろうか。

過去8年の間、スウェーデン、デンマーク、イギリス、ドイツ、カナダ、アメリカ合衆国東海岸の施設、オーストラリアの福祉施設を見てきた。
同じ先進国でありながら、知的障害者福祉の海外との差異に愕然とする。

カナダのグループホームは定員6名。閑静な住宅街にあって、職員は3名づつ3交代制だった。
その法人は24箇所のグループホームを運営しており、利用者の相性が悪いと利用ホームをいろいろと変えることができた。

デンマークのファーラム市では老人と障害者が同じケアホームに住んでいた。
完全にユニット化された8名のユニットが4つ集まって「集合住宅」を形成し、その集合住宅が4棟集まってひとつの施設になっている。
全体で105床。そこに地域デイセンターが併設され、地域生活の訓練施設も設置され、相談事業も行っている。
給食施設はこの施設群全体に食事を提供するとともに、ファーラム市に住む独居老人にクックチルの弁当を宅配するサービスも行っている。
北欧では効率とQOLを両立させている。日本では地域福祉というと規模の小型化・分散化のように考える人がいる。間違っていると思う。

アメリカのワシントン郊外の施設。
作業棟ではパテントを取得したノンスリップ松葉杖の組立作業を行っている。
ここの法人の中には就労前教育を行うアカデミーがあって知的障害がある人たちが真剣に講習に参加しノートをとっていた。
現在ワシントン市内に2000人が就労していて常にアフターケアサービスを受けている。
法人の財政をまかなうため、中古車の寄付を呼びかけている。業者と提携し、車を修繕・再販して収益を稼いでいる。
これはワシントンの有線テレビネットワークにテレビコマーシャルを流すまでになっている。
アメリカは競争社会であり受益者負担の考え方が徹底している国。だから支援費報酬は低くて自己負担でまかなわれていると思ったらそうではない。
低所得者向けのメディケイドとメディケアという制度があり、実際には日本の支援費単価よりも高い報酬が提供されている。

ドイツの障害者施設は規模が大きかった。キリスト教会が財政をバックアップする。圧倒的な設備、圧倒的なボランティア層によって支えられている。
宗教をベースとして、ハンディをもった人たちを支えあうという連帯感に圧倒される。コストを下げるために入所施設を解体して地域福祉に移行するという発想はない。

オーストラリアのメルボルンでは義肢や補助具のフィッティングをしている施設を見学した。
何かとローテクではあるが義肢や補助具を用い、工夫をこらして生活の質を高めている。なにごとものん気に生活を楽しもうという国。
オーストラリアなまりの英語で利用者も見学者に「ナイスダイ(nice day)」といってくれる。明るい。
工夫できるところはどんどん工夫して自分でできる生活を作り上げていくガッツがいい。
世界トップクラスのロボット技術をもつ日本としては、障害者分野にこれを適応するといいが、その前にローテクでやれることもたくさんある。

イギリスではケアの質を保つために現場に入って監査が行われる。定型的な提出書類中心の監査だけで「指導」が終わる日本とまったく違う。
日本の監査は補助金や支援日報酬の申請内容の検査、利用者との契約内容、施設の設備、職員の配置状況、職員の資格、職員の福利厚生、役員の報酬が監査の中心。要するに申請に不正はないかということと、経営者が不当に儲けていないかをチェックする。職員は不正がないことを証明するために膨大な書類を作成することに日々追われる。

日本の障害者福祉制度は硬直的だ。障害者自立支援法が廃案になることは望ましいが、過去の硬直した運営を強いられる福祉に戻るのは困る。
利用者にとって望ましいサービスが創意工夫によって生み出されるしくみがないことは、結局、利用者のQOLを低下させる。

凛として空を見上げる花を咲かせることができたら・・・

1月17日 名東福祉会関係の施設家族会の皆様が大勢集まって、私が愛知県福祉協会からいただいた福祉功労賞を祝ってくださいました。
各施設の所長も職員を代表して参加し、花束まで贈呈していただけました。

こんなうれしいことは久しぶりです。

実は私はこれまで数々の立派な賞をいただきましたが、いつも障害の子を持つ親としてあたりまえのことをして来て、
私だけが賞をいただくのはどうも面映い気がして、いつも賞をもらったことは皆様にはお知らせせずにいました。
このたびは、40年も前にお子さんを世話させていただいたお母様から
お祝いのハガキをいただき、感動したことを名東福祉会の機関紙「WORKS」の奈々枝日記に掲載したので、
話がパッと広がってこのたび全家族会の主催でお祝いいただくこととなりました。

記念品もいただきました。
高齢者にとって、心まで温まる、暖かなショールでした。ありがとうございました。

お祝いをひとりひとりおっしゃってくださったのですが、
「これから、ひまわりのように大輪の花をもう一花咲かせてください」といわれました。
私、今年で80歳。レジデンスが最後の最後となる施設と思っていました。
もう一花咲かせるというのは、80歳を過ぎたものにとって、重いはなしです。

8年前、レジデンス日進を国の補助金で建てようと申請をする直前、心臓が悪くこのままではおそらく1年ほどで命がないと言われました。
何をするにも息がきれ胸が締め付けられるのでそのとおりだと思いました。
「もう1年だけ生かしてください。それでまったく悔いはありません。」と心臓手術に踏み切ったときには、レジデンス日進こそ、最後の最後になる施設と思っていました。
ところが、その後も施設の必要性はなくなりません。
今度はたけのこの家というまったく新しい意義深い施設ができ、はたまた楽しいメイグリーンができ、念願のケアホームができる日もももうそこまで来ています。
私は夢のまた夢との思いです。

これでもう大丈夫となるはずだったのに、障害者自立支援法はまったく思いもよらない法律でした。
お祝いを頂いた翌日の1月18日、中日新聞に母親が知的障害や病気がある息子二人を殺害したという記事が小さく載りました。
福祉は戦後60年かけてずいぶん進んだかと思ったのに、あまりにも使いにくい制度になったので、不安ばかりがひろがり、こんなことになるのではないでしょうか。
私の長男が障害児となった53年前とそんなに変わりません。

50年経っても、母親はわが子に障害があることを受け入れることはつらいのです。前向きに生きていくにはどうしても私たち仲間の力がいるのです。
こんなことにならないように何とかしなければと痛切に思います。お祝いをいただいて、大輪を咲かせよといわれてもとてもとてもと思いましたが、私は原点にぐいと引き戻されたような気がします。

大輪の花とはいきませんが、野菊のようにささやかで、凛として空を見上げる花を咲かせることができたら・・・と思います。

2008年1月18日 | カテゴリー : ななえ日記 | 投稿者 : 加藤 奈々枝

子どもを思う親の気持ちはみんな共通

皆様新しい年を迎えおめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
今日はメイトウワークス家族会の新年会でした。おいしいお料理がたくさん出て幸せでした。

あいさつのあと、皆さんに何かご希望があったらおっしゃってくださいと問いかけたところ、
「現在はメイトウ・ワークスに通って幸せですが、親が年を取って自分のこともできない日が来たとき親ひとり子ひとりではどうすればいいのかわからない。この次は親子で入れる施設をつくってください。」
との意見が圧倒的に多かった様です。親として年を取ったときの不安はみまさんがまだほんとうに若かった30年前からあったように思います。

ただ、そうした施設ができたとしても、みんな自由に入れるということにはなりません。
自由に入れる施設は利用料が高く、低料金で快適な施設となると順番待ちでなかなか入れません。それは世の道理です。

将来建設される施設を待つだけではなく、今利用できる手立てについてよくよく目を凝らして見てみることです。
名東福祉会を見ればショートステイもあります。ご近所の法人さんもいろいろと門戸が開かれています。
親子で入れる老人ホームなんて考えないほうがいいですよ。

「子どもが地域でどうやって生きていけるかはいろいろ方法があります。まずはやれるところからいろいろな体験をしていきましょう。もう私(奈々枝)はこれで終わりだと思うので、皆さんのなかから土地を提供したり、建設資金をためたりして、子どもたちの行く末を何とか形作ってください。」
といいましたら、
「私は土地もお金もないので今から福祉士の資格をとって、名東福祉会のお役に立ちたい。」
という人も出てきました。
子どもを思う親の気持ちはみんな共通です。
小さな願いもみんなが力を合わせればいろいろ新案も出てきます。
みんなで未来をつくりましょう。

2008年1月8日 | カテゴリー : ななえ日記 | 投稿者 : 加藤 奈々枝